昨年(2006年)8月の福岡市・海の中道大橋で起きた飲酒運転事故はいまだに記憶に生々しく残っています。3児の命を一瞬にして海底に葬った痛ましい事件から1年、先月には再び福岡市職員がバイクの飲酒運転事故を起こし、この問題の根の深さを再認識させられました。この問題の根本が、車という道具を使いこなせない運転する人の側の心の問題であることは自明なのですが、車づくりに携わるエンジニアとしては複雑な心境でしょう。

 そもそもアルコールが入っているかどうかをマシンが判定する技術は、少し頑張れば実用化が可能なレベルにまで進歩しています(Tech-On!の関連記事1同2同3)。飲酒状態にあるかどうかを息の中に含まれるアルコール蒸気の濃度やハンドルを握る手の汗などから推定できるまでになっていて、そのようなオプションの装置は既に市販されているのです。

 しかし、自動車メーカー側がそれを明日から標準装備にするかというと、それはまた別儀となるでしょう。なぜなら、私たち顧客がその「飲酒センサーをパスしないとエンジンがかからないという新型自動車」を積極的に買おうとは思わないからです。売れる機能ならとうに発売されているはずです。エンジニアの立場としてできることは、「社会の要請があればいつでも出せるんですよ」という状態にまでその技術を磨きこんで暖めておくということなのでしょう。

利便の代償

 自動車とは罪な道具です。自動車のない現代社会など想像することもできないくらい大事な機能を担っています。しかし同時に、その便利さの引き換えに二つの大きな代償を私たちは毎日支払い続けているのです。

 一つは交通事故。昨年(2006年)の国内の事故死者数は6871人で、これは9.11テロ事件の犠牲者数である2973人の2倍以上、阪神淡路大震災の死者数である6434人よりも大きな数です。もう一つは環境問題。50kgのヒト一人を運ぶのに、1tを超える鉄の道具そのものも動かさねばならず、地球環境にとっては非常に重い贅沢料を支払っているわけです。それがわかっていても、自動車の使用を禁止するという政策を選ぶ国家はありません。利便や効率の魅力の方が上回っているからです。

 私たちの生み出す人工物とは、様々に工夫を凝らした利便性を提供してくれますが、必ずトレードオフとしてなんらかの代償を支払わねばならない宿命があるのです。この「利便の代償」というテーマを取り上げ、今回はコミュニケーションという視点で考察してみたいと思います。

超人的な道具

 ハンドルを握ると性格が豹変する人がいます。普段はおとなしい人が、いったん運転席に身を収めてイグニッション・キーをひねったとたん、ほかの車に幅寄せしたり煽ったりと、凶暴な性格を顕わにし始めるのです。

 確かに、運転者を別人格に変身させ得る要素が車には満ち溢れています。金属の鎧で守られ、何百馬力という超人的なパワーを与えられると気持ちが大きくなるのでしょう。そのうえ外界から顔が見えづらい構造になっていますから、普段は押し殺された本当の自分が表に出てくるのかもしれません。こうした要因によって、人と人との直接の対面ではとてもできないような下品な振舞いをするドライバーが生み出されることになります。つまり私たちは、個々のドライバーの利便性を手に入れた結果として「車社会では車々間の関係性が刺々しいものになってしまう」という代償を払わされているのです。

 「2ちゃんねる」などのチャットが炎上するという現象にも共通点があります。電脳世界というリアルの世界では決して体験できない無限の広がりを持つ空間が、机の上のディスプレイ上に展開しています。自在にその中をサーフィンすることができ、世界中のどこにでも瞬時に移動できて、全く知らなかった誰とでもリアルタイムでコミュニケートできるようになりました。夢のような超人的な能力の獲得です。覆面性という意味でも自動車と似ていますし、少々こすったりぶつけたりしても自分の身体に痛みを感じない点も共通しています。

 これら二つのような「とても便利で超人的な道具」の普及は…(次ページへ