先週のお盆休み,うだるような暑さの中,帰省先で某書店を覗くと,面白いタイトルの本が目に入った。『中国の不思議な資本主義』(東一眞著,中公新書クラレ)である。特に筆者が興味を持ったのは,「共同体」に対する中国人と日本人の考え方の違いについての考察である。

 著者の東氏は,日本社会では「世間」という名の拡大された共同体が「日本全土を大気のように覆っている点に特徴がある」(同書p.45)と見る。そうした「拡大共同体」の中に,会社や家族といったより小さい共同体が入れ子構造になっている。そして日本ではこうした拡大共同体としての「世間」が人々が行動する規範となっている。「世間」が認めることが正しいことであり,そこから「赤信号,皆で渡れば怖くない」というメンタリティも生まれる。

 「拡大する共同体」というのは面白い表現だと思った。共同体の基本単位は家族であり,伝統的な意味の共同体は血縁や地縁関係などの小さい集団を指すが,日本人の場合それが会社や業界,広範囲の地域といったところまで拡大しようとする傾向があるようである。

 これに対して中国では,こうした「拡大」のメカニズムが働かないという。血縁や親しい友人だけに閉じた秘密結社のような「共同体」からなる無数のネットワークが堆積している構造が中国社会の特徴だと東氏は見る。

「世間様に迷惑をかけない」vs「旅の恥はかき捨て」

 つまり,共同体の基本原理として,共同体の内部では助け合いやいたわり,贈与の応酬などの規範が存在する。それは日本でも中国でも変わらない。ただし,日本ではその共同体の概念がスケーラブルに拡大解釈され,入れ子構造の最も外側の「共同体」は日本全体だったりする。だから,日本人は日本にいる限り,例えば電車の中で周りは他人ばかりであったとしても,共同体の規範から逃れることはできない。その一方で,「旅の恥はかき捨て」という言葉があるように,外国では突然規範から外れた行為に走ったりする傾向が日本人にはある。

 それに対して中国における「共同体」はあくまで血縁や地縁,親しい友人グループに限られるので,同じ中国人同士であっても相互扶助の規範が外れがちだという。東氏は,共同体の外側は「まるで荒寥とした荒野か砂漠のような世界で,力が強い社会が勝つ厳しい空間が広がっている」(同書p.51)と書いている。

ビックリ体験談

 「拡大共同体」の考え方が染み込んだ日本人が中国で生活すると,中国人の様々な態度や行動に「異文化ショック」を受けることがよくある。東氏は,決して民度が低いとか発展途上国だからといった問題ではなく共同体内の規範のあり方の問題であると断ったうえで,日本人駐在員同士で食事をしたときなどに花が咲く「私は見た!身勝手中国人のビックリ体験談」に同書内で触れている。例えば,エレベーターに乗っていてある階で人が乗ろうとしても「閉める」のボタンを押し続ける人が多いといった,いくつかのエピソードがつづられている。

 こうしたエピソードを読みながら,筆者も10年ほど前にシンガポールに駐在していたときの経験を思い出した。

 そのころ(今でもそうかも知れないが),シンガポールには中国からの観光客が多く来ていた。ある日,筆者はインドネシアのバタム島にある工場に取材に行くためにフェリー乗り場の待合室のベンチに座っていた。そこに中国からの観光客が10数人,大声で談笑しながらどやどやと入ってきた。その待合室には,彼らすべてが座れるだけの空き椅子は充分にあった。リーダー格らしき方が皆を座らせ,さて自分はというと,対面の仲間の方と話しながら,なんと,筆者のひざの上に座ったのである。

 その方は「あれ?変なものがある」程度で筆者を見ることもせずに,もちろん謝りもせずに,相変わらず大声で談笑しながら隣の椅子に移ったのだが,そこには筆者のかばんが置いてあった。それにも気づかずに,かばんの上にお尻をのせたのである。

 そのかばんにはカメラなどが入っていたので,あわててその方の背中を押してかばんを回収して席を立ったのだが,その方はそれに気づくそぶりも見せずに相変わらず大声で談笑していた。一人で旅する筆者が目立たなかったのかもしれないが,存在そのものを認知してもらえなかったことにあきれるやら驚くやら…ということがあった。

建築プロジェクト入札の不正行為にみる日中の規範の違い