「私を消す」とはどういうことか
この7月10日,NBonlineに掲載された「『見る』学習と『なぞる』学習〜鬼師・美濃邉恵一〜」というコラムを興味深く読んだ。このコラムは,脳科学者の茂木健一郎による「超一流の仕事脳」という連載シリーズで,NHKの番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」と連動した企画である。
今回のコラム・番組に登場した美濃邉氏は,「鬼師」と呼ばれる,神社仏閣などに使う鬼瓦(おにがわら)をつくる職人である。番組の中で美濃邉氏は,痛んでしまった古い鬼瓦と,これから新しく鬼瓦にするための粘土を並べて置き,古い鬼瓦にすっと触れては隣の粘土で作業を続ける。細かいところまで寸法を測って転写するのではなく,なぜ触れながら作業するのかと理由をたずねられた美濃邉氏は,「触ってみると,手を通して,どんな職人がどんな思いでその鬼瓦を作ったのかが分かる」と答える。この様子を見て茂木氏は,「感覚系の学習」と「運動系の学習」の2つがあり,美濃邉氏の手法はまさに「運動系の学習」だと見て,コラムの中で次のように書いている。
最近の脳科学の「ミラーニューロン」という、相手の心と自分の心を鏡に映したように生成するニューロンは、運動前野というところにあり、運動系の回路である。美濃邉さんの話を伺って、このことを真っ先に思い浮かべた。
「ミラーニューロン」とは
「ミラーニューロン」とは何だろうか,と興味を持ったので本屋さんを覗くと,たまたま『意識とは何か――「私」を生成する脳』(茂木健一郎,ちくま新書)という本の中に「ミラーニューロン」について書いてあるのを見つけたので,さっそく購入して読んでみた。
これが実に刺激的で面白い本であった。本書の主題は,そもそも「あるもの」が他のものと区別される「あるもの」として認識されるのはなぜか,そのような「同一性」を認識する「自分」とは何か,という問いかけであるが,ここでは「ミラーニューロン」について説明したくだりに注目してみたい。
それによると,ミラーニューロンとは,ミラー(鏡)の名前の通り,自分がある行為をするときと他人が同じ行為をするときに,その二つの行為が鏡に映したもののように活動する神経細胞のことである。「DNAの2重らせん構造の発見以来の最大の科学的発見」というほどの注目を浴びている神経細胞なのだという。ミラーニューロンがなぜそれほど注目されているのかについて茂木氏は次のように書いている(同書p.118)。
自己と他者の行為を鏡に映したように結びつけ,その結果,たとえば,「このような行動を相手がしているということは,私だったら同じ行動をしている時にはこのような気持ちになるだろうから,相手も同じ気持ちになっているに違いない」というように,他者の心を推定する能力=心の理論を支える神経モジュールとして機能しているのではないかという点が注目された。
このミラーニューロンによる神経活動の一例として,茂木氏は「ふり」をする行動を挙げている。例えば,親が幼児に対してくすぐる「ふり」をする遊びである。人間の子供は成長のある段階でこの「ふり」を理解して,人間らしくなっていくのだという。ここで重要なのは,相手が「実際にはくすぐらないけど,くすぐる『ふり』をしている」という心の状態を理解するために,「自らの心の状態を他者の立場に置き換える」(同書p.114)ことができるようになることである。つまり,相手の心の状態を鏡のように自分の心に映し出すことによって,他人の心の状態が分かる,ということのようだ。
人間とは「ふり」をする存在である
さらに茂木氏は,そもそも人間とは「『ふり』をする存在である」と考察を進めていく。例えば女性が,夫の前では「妻のふり」,子供の前では「親のふり」,親の前では「子供のふり」をするように,相対する人が替わるたびに人間は「ふり」を変えている。つまり,他人との関係性の数だけ自分がある。または,新しい他人と出会うたびに新しい自分が生み出される,存在である。
このことから分かるのは,人間はとかく「自分らしさ」や「私の個性」というものがあると思いがちであるが,「自己という『同一性』は,他者との関係性によって生み出されるものである」(同書p.139-140)ということになる。
茂木氏の本の紹介が長くなったが,もう一つ面白いと思ったくだりを紹介すると,人間は「ふり」をすると同時に,他者と接した際にその他者の新しい面を見て,その他者についての新しい属性を生み出すという認知の仕組みを持っているという指摘である。
これは言ってみれば人間とは他者に対して,本来の姿とは異なる思い込み(仮想)を常にしているようなものである。または,人間は他者に対して常に勘違いをしているようなものだと言ってもよいかもしれない。「本来のBとは異なるB´という仮想を立ち上げる能力こそ,私たちが,関係性の中で新しいものをつくり上げるメカニズムの本質があると考えられる」(同書p.147)。このくだりを読ませていただいて,創造性の源泉とは「勘違い」にあることかもしれない,と思った。
つまり人間における「私」とは「他人」との関係性の数だけ新しい「私」が生まれることだし,「他人」とは「私」との接触の仕方の分だけ新しい「他人」が生まれることだということになる。本書にはほかにも面白い視点が数多く提示されているが,筆者がとくに面白いと思ったのは,このような「私」と「他人」のダイナミックな関係性について考察した点であった。
ジャック・ラカンの「鏡像段階」
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