人間への「設計変更」は失敗だった

 こうした5億年もかけた「設計変更」の結果,ナメクジウオのような対称な体でなく,左右非対称の複雑極まりない人間のカラダが出来上がったが,著者の遠藤氏は,タイトルにもあるようにこうした人間への進化における「設計変更」は結局は失敗だった,とあっさり切り捨てるのである。その理由として同氏は,2足歩行を始めてわずか数百万年たらずの間にボタン一つで種を完全に滅ぼすだけの核兵器を作り出したことや地球環境を不可逆的に破壊してしまったことを挙げ,そうした設計変更の失敗の根源には脳を巨大化させてしまったことがあるとして,次のように書いている(同書 p.218-219)。

 もちろん,それは,次の設計変更がこれ以上なされないうちに,わが人類が終焉を迎えるという,哀しい未来予測である。このストーリーで私たちが重く受け止めるべきことは,身体の設計変更とは,取り返しのつかない失敗作をも生み出すということを,ホモ・サピエンス自身が証明しているということだ。しかし,それを憂えても仕方がない。私が心から愛(め)でておきたいのは,自分たちが失敗作であることに気づくような動物を生み出してしまうほど,身体の設計変更には,無限に近い可能性が秘められているということだ。

「モノ」と「人間」

 ところで遠藤氏が「設計変更」という技術用語を使っているのは,機械などの「モノ」は白紙から設計されることも多いが,人間の身体の設計はベースとなるモデルを徐々に変更することでしか設計できないことを分かりやすく示すためと思われる。

 「モノ」を生み出したのは,脳を巨大化させて手先が器用になった人間であり,そのモノ自体はゼロから自由に設計できる。移動する手段を実現するためには車輪のようなものだって考案できる。これに対して,人間を設計しているのは誰なのかは分からないが(神?),前のモデルの「設計変更」しかできない。移動する手段としては例えば魚の鰭を設計変更して手足をつくるくらいが関の山なのである。

人間の「モノ化」

 こうして人間はさまざまな「モノ」を生み出し,「モノ」をベースとする文明を発展させてきたが,その過程で面白い?現象が生まれた。岡本氏の『モノ・サピエンス』によると,人間の「モノ化」が進行しているというのである。岡本氏は,モノが持つ代表的な特徴として「単一化」「使い捨て化」「物神化」を挙げている。

 このうち,「単一化」とはこのコラムでも何回か触れてきたが,資本主義のもとで「お金」によって価値が一元化することを含んでいる。つまり,人間がモノ化するとは,労働が商品としてお金に換算されるとともに,不要になったら使い捨てできるようになることだ,と岡本氏は見る。

 さらに,医学やバイオテクノロジーの発展が人間の「モノ化」を進めているという。臓器移植ビジネスがグローバル化して体のパーツが商品として売り買いされる時代になってきている。また,さまざまな臓器に分化が可能なES細胞(embryonic stem cell:胚性幹細胞)の研究が注目されている。岡本氏はこうしたES細胞に代表されるバイオテクノロジーの発展は,卵子や受精卵の「使い捨て」のうえに築かれているもので,「ヒトの使い捨てを推進している」とする。

5億年の時間を飛び越えられるか

 こうしてみてくると,人間のモノ化とは,5億年かけて「設計変更」しながら作られた人間の身体を,自動車をつくるかのようにゼロから新設計しようという試みなのかもしれない。または,単に「設計変更」にとどまるとしても,5億年という時間を飛び越えようという試みなのかもしれない。

 そして岡本氏は,人間のモノ化,つまり「モノ・サピエンス化」は,バイオテクノロジーに限定されるものではないとする。現代の資本主義社会がすべてをモノとして消費する「超消費社会」になっていることが原因であり,そうした社会では人間の欲望を原動力とした「モノ・サピエンス化」は歴史的必然だと見る。「モノ・サピエンス化」を進めていくと,「格差」や社会的規範の崩壊や管理強化といった矛盾が出てくるが,これらを隠蔽するのではなく,むしろ欲望の加速化によって矛盾を出現すべきだとし,次のように結論付けている(同書p.263)。

 今のところ矛盾が明らかになったところで何が生み出されるかはわかりません。しかし,それを乗り越えたところに新しい時代が開けていることは間違いないでしょう。そして,「モノ・サピエンス化」への欲望を加速させることで,私たちが新たな時代に踏み出すとすれば,そこではじめて「モノ・サピエンスの尊厳」を擁護すべきなのかもしれません。

「みんな仲良くしようね」

 さて最後に紹介する内田氏の『寝ながら学べる構造主義』は,構造主義の入門書である。筆者はこの本を本当に寝転んで読んだ。これまでいくつか構造主義の本は読んでみたものの筆者にはチンプンカンプンのものばかりだったが,この本は,構造主義とはどのような考え方なのか,分かったような気にさせてくれる。

 構造主義の考え方とは,ネットワークの中心に人間主体がいて自分の意志に基づいて全体を統御しているのではなく,ネットワークには中心が存在せず,ネットワークの「リンクの絡み合いとして主体は規定される」(同書p.32)というものだ。本書は,難解だといわれる構造主義の担い手の各思想家の考え方を実に分かりやすく解説する。例えば,「レヴィ=ストロースは要するに『みんな仲良くしようね』と言っており,バルトは『言葉使いで人は決まる』と言っており,ラカンは『大人になれよ』と言っているのでした」(p.200)といった具合である。

 先の2冊の本の紹介では,「設計変更の失敗作」や「モノ・サピエンス化がもたらす矛盾」など人間の暗い側面を強調したきらいがあったので,本書では筆者が「人間も捨てたものではないのではないか」,と思った部分を紹介したい。

人間とは「二つのルール」を受け入れたものである

 「みんな仲良くしようね」と言っているレヴィ=ストロースの思想を紹介したくだりである。民族学者としてさまざまな民族の親族構造を解明しようとしたレヴィ=ストロースは,親族が存在し続けるためのポイントは「反対給付」にあることを突き止めたのである。「反対給付」とは,「贈り物」を受け取った者が心理的な負債感を持ち,「お返し」をしないと気が済まないという気持ちを指す。その結果,人間社会は,贈与と返礼の往還を繰り返し,同一状態にとどまることができない状態を作り出し,変化しつづけることで存続する。内田氏は次のように書く(同書p.165)。

 人間が他者と共生していくためには,時代と場所を問わずあらゆる集団に妥当するルールがあります。それは,「人間社会は同じ状態にあり続けることはできない」と「私たちが欲するものは,まず他者に与えなければならない」という二つのルールです。これはよく考えると不思議なルールです。私たちは人間の本性は同一の状態にとどまることだと思っていますし,ものを手に入れるいちばん合理的な方法は自分で独占して,誰にも与えないことだと思っています。しかし,人間社会はそういう静止的,利己的な生き方を許容しません。仲間たちと共同的に生きてゆきたいと望むなら,このルールを守らなければなりません。それがこれまで存在してきたしべての社会集団に共通する暗黙のルールなのです。このルールを守らなかった集団はおそらく「歴史」が書かれるよりはるか以前に滅亡してしまったのでしょう。

 そして内田氏は,「人間の定義があるとしたらこのルールを受け入れたものだ」と述べる。こうしてみると,遠藤氏が言う「設計変更の失敗作」としての人間も,その肥大化した脳を使って,意識的か無意識的かはともかく,美しいルールを作ったものだと感心するのである。となると,岡本氏が言う「モノ・サピエンス化」への欲望を加速させることで,そこを突き抜けた先に新たな時代があるのかもしれない,というあたりに一筋の光が見えるような気もするのである。