無論、個々の兵士が任務を全うするためには、所属する組織すなわち軍の規律が保たれ、兵士の志気を維持する運営がなされている必要がある。『硫黄島戦記』の著者、川相氏は守備戦の末期に伍長から軍曹に進級し、その申告をした時の感激を次のように書いている。

 高石正参謀長がお出でになった。配属の一下士官が参謀大佐殿に申告するなんて、夢に思っていなかったし、話をすることもないのが普通である。(中略)参謀長は、「ご苦労、長い戦闘の期間、よくやってくれた、有難う。今後も頼むぞ」と、ねぎらいの言葉を頂いて、(中略)長い軍隊生活の中で、こんな感激に浸ることはなかった。おれはこの幹部の方々と一緒に死ぬんだ、とそう決心し、隊長に礼を述べて通信所に帰り、部下にも礼を言った。(中略)三月十六日、壕の中は、いまだ栗林忠道閣下以下、健在であるということで、一般の兵はわりあい平静であった。偉い方がいるということは、大変に心強く感じるものであるが、外の光景はまさに地獄であった。

 ようやく栗林中将の統率について触れるところまで来た。元海兵隊のロバート・レッキー氏は『日本軍強し』という著書で次のように書いている(『闘魂 硫黄島 小笠原兵団参謀の回想』(堀江芳孝著、光人社NF文庫)から引用)。

 栗林は無愛想な、頑固な冷たい月のような顔をしたずんぐりした男で、慈悲のないエネルギーによって自分の決心を強行した。部隊は彼を好まなかった。女もいなければ酒もなく、任務あるのみであった。部下は彼をやかまし屋と呼んだ。しかし彼は潔癖家であった。彼は部下に死守を命じた。まず古い武士道に似た誓いをさせた。栗林は硫黄島の地形を最高度に利用した。そして適当な位置に適度な兵力を配置する天才ぶりを発揮した。

 「慈悲のない」というのは、地下壕にもぐって戦うという栗林の構想を支持しなかった旅団長と参謀長を解任し、しかも彼らを硫黄島に残し、戦死させたあたりのことを指しての評かもしれない。しかし、更迭されたとはいえ、ここまでに紹介した状況にあった兵士達を残し、幹部が本土に帰ってしまった場合、兵士達がどう思うか。その点を栗林は考えたのであろう。

 レッキー氏の「部隊は彼を好まなかった」という指摘は、栗林の直属の部下については当たっているようである。『闘魂 硫黄島』の中で、著者の堀江氏は、「誰かが兵団長が細かいことに口を出し、やかましくて困るのですといっていた」「兵団長は言葉がぶっきらぼうで他人の悪口など平気でいった」「自分の思ったことを人の前でずばりといい、いったら最後とことんまできかない強引なところがあった」などと書いている。兵団長とは栗林中将を指す。さらに堀江氏は「現場の陣地指導をしても、後から兵団長がきて片っぱしから修正してしまう。しかも私に何もいわない。けしからん」と息巻く参謀の様子を描写している。栗林は「硫黄島の地形を最高度に利用」する作戦を理解せず、上陸してくる米軍を水際で迎え撃つという従来の作戦にこだわる部下達に業を煮やし、現場を直接指導する挙に及んだのだろう。

 「古い武士道に似た誓い」とは、栗林が自筆した「日本精神錬成五誓」と「敢闘ノ誓」(六訓)を指す。栗林はこれらをガリ版で刷って、全軍に配布した。五誓の一は、「日本精神の根源は敬神崇祖の念より生ず。われらは純一無雑の心境に立ちて、ますますこの念を深くし、われらの責務に全身全霊を捧げんことを誓う」というもの。敢闘ノ誓はより具体的で例えば、「我等ハ爆薬ヲ擁キテ敵ノ戦車ニブツカリ之ヲ粉砕セン」「我等ハ最後ノ一人トナルモ「ゲリラ」ニ依ッテ敵ヲ悩マサン」などとなっている。

 栗林は米軍の上陸直前、「戦闘心得」と題した、さらに具体的なものを配布している。いくつか紹介する。「一人死すとも陣地に穴があく 身守る工事と事物を生かせ 偽装遮蔽に抜かりなく」「長斃れても一人で陣地を守り抜け 任務第一 勲を立てよ」「一人の強さが勝の因 苦戦に砕けて死を急ぐなよ膽の兵」。

 無論、やかましく口を出し、心得を配るだけで、全軍を統率できるわけではない。厳しい戦闘や「地下洞窟陣地の構築といふ極めて苛酷な作業を連日連夜遂行させるには、単なる命令や督励ですむものではなかつた」と、早稲田大学文学学術院教授の留守晴夫氏は『常に諸子の先頭に在り 陸軍中将栗林忠道と硫黄島戦』(慧文社)の中で書き、次のように述べている。

 栗林の「統率道」を如実に物語る象徴的な事実がある。神谷壽浩が書いてゐるやうに、生き殘つた将兵が口を揃へて自分は栗林中将に戦場で會つたと、しかも複数回會つたと、證言してゐるといふ事實である。單に顔を見たと云ふだけではない。「御苦勞」と聲を掛けられたとか、射撃の指導を受けたとか、恩賜の煙草を貰つたとか、歩兵、砲兵、通信兵、海軍兵等の兵種を問はず、「感激をもつて中将の面影を懐かしんでゐる」のである。

 参謀長に会った感激を伝える川相氏の文章を先に引いた。参謀長の上にいる栗林に声を掛けられた兵士達にとっては、生涯の記憶になったのであろう。栗林の統率道のもう一つの例として、留守教授は部下と苦楽を共にする栗林の姿を紹介している。硫黄島に連絡のために訪れた本土の幕僚は、一升瓶に詰めた水や野菜を持参した。栗林は、各部隊長を呼び、コップ一杯づつであっても水を分配し、野菜は数百片に刻んで司令部の近くに居合わせた兵士に分けたという。関連して、堀江氏は次のような記述をしている。

 節水にも力を入れた。その本尊は兵団長であった。茶のみ茶碗一杯程度でひげを剃り、顔を洗い、残った水を便所に備えるといった芸当は兵団長独特のもので、他の多くの者は真似ができなかった。この節水の問題は隊長が使い過ぎるとか、下士官で無神経の者がいるとか噂のたつ部隊もあった状況だけあって、この兵団長の率先して行なう節水ぶりは影響するところが大きかった。

 『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮社)の著者である梯久美子氏も同書の中で、栗林の統率道を示す逸話を多数紹介している。例えば、壕掘作業について栗林は次のような指示を出した。「総出演習、築城日ノ励行ニ努メ全将校洩レナク訓練、築城ニ邁進スルコト 殊ニ司令部、本部等ノ事務処理ヲ徹底的ニ簡易化シ各級隊長ハ常ニ現場ニ進出シ陣頭指揮ノ徹底ヲ計ル」。上官に現場へ出ることを命じる一方、現場の兵士には気を配り続けた。梯氏は「実際の戦闘に入ると同時に栗林が開始したのは、部下将兵の功績調査とそれにもとづく感状の授与、そして進級の申請である」と書いている。

 今回のコラムの題名を「新事業創出/新製品開発と戦争の共通点」とした。冒頭で二つの例を紹介した通り、新事業創出や新製品開発を最後までやり抜くには、合理的計画だけではなく敢闘精神が求められる。敢闘精神の発揮は詰まるところ、一人ひとりのメンバーが「お互いに恥ずかしくない行動」をとるかどうかにかかっている。そして、プロジェクトリーダーの「統率道」次第で、敢闘精神は高くも低くもなる。2万人の戦死者の敢闘精神を忘れてはならないが、彼らを率いた栗林中将の統率道から学ぶことも重要だと思う。

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(谷島 宣之=経営とITサイト編集長)