前回紹介したように、栗林中将は硫黄島の地下に要塞を作り、兵士達は地下要塞に身を潜め、上陸してくる米軍を迎え撃った。こう書くと一行で済んでしまうが、硫黄島における要塞作り、つまり壕掘は困難を極めた。昨年から今年にかけて出版された硫黄島関連書籍のうち、現場の兵士の回想録を読むと、要塞のための壕掘の苦労が記載されている。

 『硫黄島戦記 玉砕の島から生還した一兵士の回想』(川相昌一著、光人社)によると、硫黄島に配属された川相氏は直ちにスコップの支給を受け、壕掘を強いられた。硫黄島の地盤は固い。川相氏は書いている。

 手掘りだから、なかなか掘れない。一日一メートルがやっとである。奥に進むにつれて地熱は高く、褌一丁の素裸では、土くれがとんでくると、とても熱い。衣類を着たのでは、暑くていけない。十分掘って十分休む、この繰り返しだ。

 米軍の空襲を受けながら、硫黄島の兵士はひたすら壕を掘った。しかし水と食料がまったく不足していた。なんとか井戸を掘ったものの、硫黄を含んだ熱水を飲むことになり、ほとんどの兵士が下痢に悩まされた。再び、川相氏の記述を引く。

 日常の給食の玄米食四人で飯盒に一杯、重労働での食事にしてはあまりにも少量であり、副食は硫黄分を含んだ水に醤油か味噌を入れた味のない汁一杯。来る日も来る日も変わったものはない。(中略)そのうえ水が悪いので、下痢が続く。これがまた猛烈で、催しだしたら、何を置いても飛んで外に出なければいけない。

 さらに追い打ちをかけるように蠅が大量発生した。『硫黄島の兵隊』(越村敏雄著、朝日新聞社)から引用する。

 まだほの暗いころから、兵隊はこのすさまじい蠅の渦に取り囲まれた。そして明るい間じゅう、どちらかの手で休みなく蠅を追い払っていなければならなかった。手を休めると、たちまち目尻や唇に蠅の黒い花が咲いた。(中略)上陸間もないころは、鶯の声とともに、すがすがしい気分で目を覚ましたものだが、島が汚染されるにつれて、全島が蠅の島と化してしまった。明るい間じゅう、真っ黒に渦巻く蠅の中での生活である。

 硫黄島の守備についた兵士の大半は栄養失調でやせ細り、まともに戦える状態ではなかった。『硫黄島の兵隊』を書いた越村氏は極度のむくみによって動けなくなり、奇跡的に本土へ送還されたが、体重は出征時の約半分(33キログラム)にまで減っていたという。

 こうした状態の兵士達が、米軍が驚くほど巧緻な地下壕を掘り抜いた。そして十二分な食料と水と兵器を持った米軍と対決し、太平洋戦争において最大の損害を米軍に与えた。

 守備についた兵士の心境は様々であったと思われる。本土防衛の要の一つであった硫黄島を守ろうという気概を最後まで持っていた方もあっただろうし、お国のためとは言うものの、なぜ自分がかくも悲惨な島に送り込まれたのだろう、と嘆息した方もいたのではないか。『硫黄島の兵隊』の著者、越村氏は硫黄島にいた時、「皆殺しにされるのなら、殺しにやってきた人間を一人でも多く道連れにして死ぬことだ」と覚悟した。越村氏は次のように書いている。

 果たして最後の日の修羅場は、こんな冷静さを保っておれる情勢であるかどうかは、思いえがくこともできない。が、この考えを貫くことで、ともかく、最終段階の心構えとして、胸のうちを決めておくことにした。そうすることで、生きている間の心のしめくくりをつける目処が、いくらか立ってきたような、不思議な気持ちがしてくるのである。

 越村氏は続けて、「尽忠報国とか、滅私奉公とかいう、幼少のことから強制された教訓からくるものではなかった」と書いている。越村氏が行動を共にしていた玉井中隊長はある時、越村氏に「(敵が上陸してきた)その時はな、お互いに恥ずかしくない行動をすればいいのだ」とぽつんと言ったという。指揮官である玉井中隊長は、硫黄島に対する海軍空軍の支援がなく、どれほど健闘したところで玉砕は避けられないことを分かっていた。

 最後のぎりぎりの時には、祖国がどうこうではなく、一人の人間としていかに行動するかが問われるわけである。食料も水も兵器も不十分、下痢でやせ細り、地上に出れば米軍の爆撃か蠅の嵐が待ち受けている。そうした中で、多くの兵士が「恥ずかしくない行動」をとり、米軍に打撃と衝撃を与えた。