新方針を理解しない部下を更迭

 それでも配下に方針変更に納得できないものがいた。栗林中将は直属の旅団長や参謀長を更迭、陸軍中央部に依頼し、新たな旅団長、参謀長、参謀を呼び寄せる。硫黄島に呼ばれた三人はいずれも、陸軍の歩兵戦闘に精通した人物であった。前回紹介したように、米軍上陸後に栗林中将はノイローゼになり実際の作戦立案や指揮はこれら三人がとった、したがって栗林中将はさほどの名将ではない、と主張する向きがある。仮にその通りであったとしても、地下要塞を使う持久戦の方針を決め、構想通りの完成には至らなかったものの米軍を驚かせた地上要塞を作り上げ、持久戦にうってつけの精鋭幹部三人を呼び寄せたのは栗林中将であったわけで、その功績は揺るがない。プロジェクトマネジャにとって最重要の仕事はプロジェクトの運営方針を決め、チームを作ることだからだ。

 太平洋戦争の顛末を史実として知っている現在の我々にしてみると、50数年前、日本軍が水際撃滅方式にこだわり続けたのは不思議に思える。だが、「旧日本陸軍は頑迷固陋」と言って済ますわけにはいかない。過去の成功体験に基づく教義にとらわれ世の中の変化に追随できない事例や、新しい方針についていけないメンバーを抱えた混迷プロジェクトは現在でも見出せる。これでは50年後に「2007年当時の日本人が××にこだわり続けたのは不思議」と言われかねない。

 合理的に考え、新しい戦術を編み出した米国海兵隊に対し、栗林中将も合理的に考え、新しい戦術をもって対抗した。早稲田大学の留守教授が指摘するように栗林中將は「帝國陸軍には珍しい合理主義精神の持主」だったわけである。栗林中将はなぜそうした合理主義精神を持つことができたのか。もって生まれた資質に加え、38歳から5年間、米国やカナダに武官として駐在した経験が影響している。

 『闘魂 硫黄島』の著者・編者である堀江氏は、「自ら先頭に立って何でも自分で決めて行くという(中略)兵団長の行き方は在米隊付の間に米国軍隊から学びとったことは事実で、兵団長自らそれを認めていた」と書いている。兵団長とは栗林中将を指す。司令官なのであるから、「自ら先頭に立って何でも自分で決めて行く」のは当然とも思えるが、日本陸軍は違った。堀江氏によると栗林中将が更迭した旅団長は「部下の案をよく聞いて承認していくという日本陸軍一般のタイプ」で、栗林中将と対照的であったという。

 38歳から5年間、米国やカナダに住み、軍事と米国研究を続けた結果、米国の国力と軍事力を熟知するに至った。硫黄島で混成第二旅団隊長を務めた武蔵野菊蔵氏が『闘魂 硫黄島』の中で述べていることだが、武蔵野隊長は栗林中将から次のように言われた。

 ぼくは米国に五年ほどいたが平和産業が発達していて、戦争ともなれば一本の電報で数時間を要せず軍需産業に切り換えられる仕組みになっているのだ。こんな大切なことを日本の戦争計画者たちは一つも頭においていない。僕がいくらいっても一向お分かりにならない。この戦争はどんな慾目で見ても勝目は絶対にない。しかし、われわれは力のあるかぎり戦わなくてはならない。血の一滴まで戦わなくてはならない。

 米国に絶対勝てないと確信していた栗林中将が硫黄島戦の責任者に任命された。天命というか、神様のいたずらというか、形容する言葉を見出せないが、米国を熟知している人物が米国と「血の一滴まで戦」うために、考えに考えた結果として、地下要塞を駆使した持久戦術が生み出されたのである。

「何の役にも立たなかった」トーチカ

 海軍の要請で作ったトーチカと、栗林中将が命じて作らせた地下要塞はそれぞれどうなったか。混成第二旅団隊長であった武蔵野氏が『闘魂 硫黄島』に寄せた手記の中に次のような下りがある。「南海岸に構築した百三十五個のコンクリート・トーチカと松尾中尉の指揮する砲兵陣地は、敵上陸前四日間の砲爆撃で全部あと形もなく飛散し、何の役にも立たなかった」。

 米軍の砲爆撃について武蔵野氏はこう書いている。「敵は海に全艦全砲門を開き、陸に臼砲、重砲、迫撃砲のあらゆる砲門の火蓋を切り、空からは数百機よりになる爆撃を敢行し、上に下にまた右に左に雀の舞うように爆撃機の群れで真っ黒であった」。だが、米軍は硫黄島の様相が一変するほどの砲爆撃を加え、水際陣地を「全部あと形もなく」粉砕したものの、地下要塞は破壊できなかった。米海兵隊を率いた第5上陸軍団司令官のスミス海兵中将は回想録『珊瑚礁と将官達』において次のように書いた(訳文は『闘魂 硫黄島』掲載のもの)。

 日本軍は一瞬たりとも休む暇がなかったにもかかわらず、爆撃を受けながら陣地を構築した。守備隊は体を断ち切られるごとにますます強くなる虫のようなものであった。私の参謀長ブラウン大佐は「七十日以上も毎日硫黄島に爆撃を加えたが、堅牢に要塞化された敵の防備施設を破壊する上では効果が現われなかった」といっている。

 こうした状況の中、「一旦上陸を許」された米海兵隊に対し、日本軍は猛烈な攻撃を加え、凄惨な戦いの幕がきって落とされた。栗林中将の合理精神は、戦い方にも及んだ。一例は「万歳突撃」の禁止である。読んで字の如く、万歳を絶叫しながら白兵が切り込むというもので、攻撃開始を敵に知らせることになり戦果はほとんどなく、兵力を一気に削減し、玉砕までの時間を早めるだけの戦法であった。それまでの日本軍は、米軍の上陸を許してしまった後、万歳突撃をすることが多かったが、栗林はこれを許さなかった。また、戦闘前に非戦闘員を引き揚げさせた。『闘魂 硫黄島』の著者、堀江氏によると、小笠原の父島にいた同氏に、栗林中将は次のような至急電報を兵団長直電で送ってきた。「噂によれば父島には多数の島民が残留している由。貴官は戦闘に当たり非戦闘員が足手まといになることを知らざるや。至急返。栗林」。

 スミス海兵中将は回想録において次のように記した(訳文は『闘魂 硫黄島』掲載のもの)。

 栗林は数カ月前に非戦闘員を本土に引き揚げさせていた。足手まといに邪魔されたくなかったのである。栗林は将兵に楽しみを何一つ許さなかった。島に女性は一人もいなかった。彼は部下の将兵に典型的な日本軍の誓い―天皇のために死に、死ぬときには十名のアメリカ兵を道連れにするという誓い―を立てさせた。酒の力を借りた突貫などは許さなかった。グアムやサイパンと違って硫黄島には大量の酒類はなかった。硫黄島には断崖から海に飛びこんで自殺するというようなことはなかった。日本兵は最後まで戦いぬいた。そのため掃討戦で受けたわが損害も甚大であった。

 合理精神無くして勝つことはありえないが、合理精神だけで戦い抜けるわけではない。スミス中将が書いている通り、何が何でもやり抜くという敢闘精神が必須である。次回は、硫黄島戦における敢闘精神と栗林中将の統率ぶりについて述べる。

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(谷島 宣之=経営とITサイト編集長)