もう一つの課題は、「西洋の開化は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である」こと。これは有名な発言なので、どこかで目にされた読者もおられると思う。西洋の開化は内から自然に出て発展してきたが、日本の開化は「外からおっかぶさった他の力で已むを得ず一種の形式を取」らされた。そのため「開化のあらゆる階段を順々に踏んで通る余裕を有たない」ので、「気合を懸けてはぴょいぴょいと飛んで行く」しかない。

 筆者はコンピュータ産業の取材を20年続けているので、漱石の指摘をコンピュータ産業に当てはめてみたい。コンピュータはそのすべてが西洋生まれの「怪物」であり、日本はやむを得ず西洋の真似をしてコンピュータを作ってきた。「あらゆる階段を順々に踏んで通る余裕」がないので、政府の指示で国産コンピュータ産業を育成し、米国製コンピュータを買う民間企業に圧力をかけて、国産機に買い直させた。一部のメーカーは「気合を懸けてはぴょいぴょいと」飛ぼうとしたのかどうか、スパイまがいの行為までやって西洋に追い付こうとした。

「一言にしていえば現在日本の開化は皮相上滑りの開化であることに帰着するのである。(中略)我々の開化の一部分、あるいは大部分はいくら己惚れて見ても上滑りと評するより致し方がない。しかしそれが悪いからお止しなさいというのではない。事実已むを得ない、涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならない」

 怪物と書いてしまったが、筆者はコンピュータは開化を支える技術の中で、もっとも重要なものであり、世紀の発明と考えている。また、日本のコンピュータ産業関係者にはもっともっと儲けて欲しいと思っているが、それとは別に漱石の指摘通りだとつくづく感じる。いささか大げさだが、これからも日本企業は「涙を呑んで」西洋生まれの技術や製品を丸飲みし、本当に便利になったのかどうかよく分からないまま、滑っていくしかない。

 外圧に押し流されず、内発的な開化をじっくり進めていってはどうだろうか。これに対し漱石は、西洋人が百年かけて達成した開化を、教育の力によって四、五十年で内発的に達成するなら、神経衰弱にかかってしまう、と指摘する。開化しても人間の幸福は「野蛮時代とそう変りはなさそうである」上に、ひたすら上滑りで滑っていくか、滑らないように踏ん張って神経衰弱になるしかない。

 「どうも日本人は気の毒と言わんか憐れと言わんか、誠に言語道断の窮状に陥ったものであります」。これが漱石の結論であり、「どうすることも出来ない」と言う。さすがにあんまりだと思ったのか、「神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うより外に仕方がない」と言い直して、『現代日本の開化』の講演を締めくくっている。

 開化の担い手である「怪物のように辣腕な器械力」を支えるのは技術者と呼ばれる専門家である。専門家の課題についても漱石は指摘する。次に引くのは、『道楽と職業』と題された明石における講演の一部である。

「自分の商売が次第に専門的に傾いてくる上に、生存競争のために、人一倍の仕事で済んだものが二倍三倍ないし四倍とだんだん速力を早めて遂付かなければならないから、その方だけに時間と根気を費しがちであると同時に、お隣りの事や一軒おいたお隣りの事が皆目分らなくなってしまうのであります」

イラスト◎仲森智博
 イノベーションの議論を聞いていると、業際という言葉がしばしば出てくる。異なる技術の専門家同士が協力しないと、新しいものは生まれない、といった意味である。自動車を作るには、機械、エレクトロニクス、コンピュータ、化学といった専門家同士が協力し合う。しかし、自分の専門領域ではない「お隣りの事や一軒おいたお隣りの事」はなかなか分からなくなり、神経衰弱の危険が高まっていく。

「現今のように各自の職業が細く深くなって知識や興味の面積が日に日に狭められて行くならば、吾人は表面上社会的共同生活を営んでいるとは申しながら、その実銘々孤立して山の中に立て籠もっていると一般で、隣り合せに居を卜(ぼく)していながら心は天涯に懸け離れて暮らしているとでも評するより外に仕方がない有様に陥って来ます。これでは相互を了解する知識も同情も起こりようがなく、せっかくかたまって生きていても内部の生活はむしろバラバラで何の連鎖もない。(中略)根ッから面白くないでしょう」

 社会的共同生活について指摘したものだが、技術にからむ仕事に絞ってみても、的を射ているのではなかろうか。様々な技術者が「銘々孤立して山の中に立て籠もって」おり、「心は天涯に懸け離れて暮らしている」。「相互を了解する知識も同情も起こりようがなく」、諸活動が「バラバラで何の連鎖もない」例があるのではないか。

 ここでも漱石は専門化が不可避であること、専門家の専門知識が重要であることを十分理解している。ではどうすればよいか。

「個々介立の弊が相互の知識の欠乏と同情の稀薄から起ったとすれば、我々は自分の家業商売に逐われて日もまた足らぬ時間しか有たない身分であるにもかかわらず、その乏しい余裕を割いて一般の人を広く了解しまたこれに同情し得る程度に互の温味(あたたかみ)を醸(かも)す法を講じなければならない」

 「互の温味を醸す」方法を漱石はいくつか挙げている。「公会堂のようなものを作って時々講演者などを聘して知識上の啓発をはかる」「いわゆる社交機関を利用」する、「時としては方便の道具として酒や女を用いても好い」。当たり前だが、漱石は酒や女を推奨しているわけではない。一番言いたかったのは次のところである。

「本来をいうと私はそういう社交機関よりも、諸君が本業に費やす時間以外の余裕を挙げて文学書をお読みにならん事を希望するのであります。これが我が田に水を引くような議論にも見えますが、元来文学上の書物は(中略)多く一般の人間に共通な点について批評なり叙述なり試みたものであるから、職業の如何にかかわらず、階級の如何にかかわらず赤裸々の人間を赤裸々に結び付けて、そうしてすべての他の檣壁(しょうへき)を打破するものでありますから、吾人が人間として相互に結び付くためには最も立派でまた最も弊の少ない機関だと思われるのです。少くとも芸妓を上げて酒を飲んだと同等以上の効果がありそうに思われるのであります」

 繰り返しになるが、『私の個人主義』は660円(税別)である。費用対効果の点から見ても、酒よりはるかに優れている。筆者は訳あって、最大の楽しみである飲酒を止めているので、『私の個人主義』を持ち歩いては再読し、神経衰弱にならないようにしたいと思っている。

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