日経エレクトロニクス誌がこのほど,創刊35周年を記念して特別編集版『電子産業35年の軌跡』(非売品)を発行した。同誌に在籍していた記者・元記者らの寄稿を中心に,年代ごとテーマごとに編集した読みやすい構成である。筆者も,先週の土曜日に一気に読了した。同誌の望月編集長が「いろいろ感じながら,歴史を振り返るのはいかがでしょうか」と言っているので(編集長の書いたブログはこちら),筆者も日本電子産業の競争力が,各時代ごとに技術を取り巻く状況が変化する中で,どのように変化していったかについて振り返ってみたい。

 国内製造業の産業構造は,1970年代に転機を迎える。重化学工業を中心とする体制の中からエレクトロニクス産業が一気に台頭,主役に躍り出たのである。その証拠の一つとして挙げられるのが,材料の生産状況である。当時は粗鋼生産量と原油の伸び率が横ばいになる中で,シリコン単結晶の伸び率が急速に上がってきていた。そのシリコンを使ったDRAMやマイクロプロセサが普及し始め,シリコンの酸化物を使った光ファイバの検討も活発化する。そうした状況を,同誌は「硅石器時代」と名付けた。「日経エレクトロニクスの創刊(1971年4月)と硅石器時代の始まりは同期している」(西村,p.97)という。

「不良そのものをなくす」品質手法

 「硅石器時代」の代表的製品とも言うべきDRAMで,日本メーカーは高い競争力を発揮するようになる。しかもDRAMの微細化が進展するにしたがって,その競争力はますます高まっていった。そのあたりの状況をよく表しているのが,いわゆるソフト・エラーについてのエピソードである。DRAMは極微小なキャパシタに電荷の形で「0」か「1」を記憶しているが,微細化で一つのキャパシタ当たりの電荷量が減ると,アルファ線の衝突などによって記憶内容がひっくり返ることがある。その知見が初めて学会で公表されたときの衝撃は大きかった。

 結局,日本メーカーはこの問題を解決するのだが,その手法は,不良の原因を突き詰め,それを製造技術に反映することで信頼性を確保するというものだった。「追い求めるのは高性能だけではない。その上で必要十分な信頼性を適切なコストで確保しなければならななくなった。ものづくりに長けた日本メーカーはこれをクリアした」(岡部,p.115)。

 こうして「1970年代には既にメード・イン・ジャパンは安価・高品質の代名詞」(岡部,p.115)となり,その強さは,1980年代まで続いた。そうした中で,日米の品質の考え方の違いも明らかになる。米国流の品質管理手法とは,検査によって不良品を選別してふるい落とすことである。これに対して,日本流は,前述したように不良の原因を解明して,製造工程にフィードバックして,不良そのものが生じないような製造工程に改良することであった。この品質の考え方は,電子産業に限らず,自動車産業など日本の製造業の“十八番”となった(このあたりのことに触れた以前のコラム記事)。

マイクロプロセサで始まる「衰退への道」

 しかし,わが世を謳歌した1980年代に,既にその後の衰退の兆しが芽生えていたようである。「『良い製品を安く売って何が悪い』といった雰囲気が日本産業界を覆う。この雰囲気が諸外国に学ぶ姿勢を弱め,後年のバブル経済と1990年代の『失われた10年』を準備する」(西村,p.125)。

 衰退の兆しは,DRAMに続いてエレクトロニクスの主役になった「マイクロプロセサ」という技術そのものに内包されていたと言えるかもしれない。「マイクロプロセサ・システムにおいては,ハードウエアは汎用となる。マイクロプロセサはプログラム内蔵方式だからである。用途を特定するのはソフトウエアの方だ」(西村,p.99)。

 マイクロプロセサは,シリコンバレーの若者たちを刺激し,ソフトウエアによる新しい応用が次々と生まれ,産業構造はタテ(垂直構造)からヨコ(水平分業)へと転換していく。ヨコの世界では,他社とのネットワークが重要であり,おのおのの要素を組み合わせてどのようなビジネスモデルを生み出すかが問われる。日本企業は,そうした転換にうまく対応できなかった。

「なぜビジネスモデルを書かないのか!」