2週間に1回、新稿を本欄で公開するはずが、今回はほぼ2週間遅れてしまった。遅延についてまず、お詫び申し上げる。

 状況を説明すると、鬼編集者の赤坂氏から数回にわたって催促されたにもかかわらず、なかなか着手できなかった。業を煮やした赤坂氏から「『ガリヴァ旅行記』に入れ込みすぎましたか」と指摘されたが、それはかなり当たっていた。ガリヴァ旅行記についてコラムを書いた後、他の原稿がなかなか書けなくなってしまったのである。本欄以外の原稿についても同様であった。

 原稿を書くことが筆者の仕事であるので「書けない」などと言っている場合ではない。気を取り直し、何を書こうかと考えた時、先のコラムについて読者の方が書き込んで下さった次の意見を思い出した。

「宮沢賢治には、スウィフトとは趣は異なりますが、純粋科学よりもその有効利用へのロマンを感じます」

 前回原稿の趣旨は、「ガリヴァ旅行記の著者スウィフトは純粋科学者を攻撃し、社会に役立つ技術や技術者のほうを評価していた」とするピーター・ドラッカー氏の見解を読者に伝えることであった。その原稿を読んだ読者が、宮沢賢治のことを思い出したわけだ。

 そうだ、宮沢賢治のことを書けばよい。数カ月前、赤坂氏から「幸田露伴永井荷風のように、技術者が読んでも面白い作家や本のことを書いて下さい」と言われていた。前回、ガリヴァ旅行記を紹介したのは、赤坂氏とのやりとりを受けてのことであった。同じ方法で書けばいい。

 ここで少し脱線する。筆者が個人全集を揃えている文学者は4人いる。一人は筆者がもっとも尊敬している思想家・批評家である。それから小学校から中学校にかけて愛読した小説家が二人。残る一人が宮沢賢治であるが、断簡零墨まで収録した大部の『校本全集』を揃えているわけではない。持っているのは、ちくま文庫版の『宮沢賢治全集』である。

 奥付を見ると、文庫版の全集は1986年に出版されている。その年に買ったかどうかは覚えていないが、おおよそ20年前に揃えたことになる。ただし、全巻を読破したわけではない。本欄に宮沢賢治のことを書こうと思い立った後、週末に家捜しをして、文庫版全集を掘り出したものの、あちらこちらを拾い読みしているうちに時間がたってしまった。

 本題に入る。読者の方から指摘されて思い出したが、宮沢賢治こそは、代表的な技術馬鹿の一人と言える。念のために書くが、技術に命をかけたという意味で技術馬鹿という言い方を使っており、敬称のつもりである。

 県立花巻農学校の教師をしていた宮沢賢治は大正15年(1926年)に農学校を辞職した。文庫版全集第2巻にある入沢康夫氏の解説によると、前年に教え子にあてた手紙の中に「わたくしもいつまでも中ぶらりんの教師など生温いことをしてゐるわけに行きませんから多分は来春はやめてもう本統の百姓になります」とあるという。筆者は、教師の仕事が中ぶらりんとはみなさないが、思いこんで本当に辞めてしまうところが馬鹿である。

 教師を辞めてからの賢治の生活ぶりについて、入沢氏は次のように描写している。「昼は自ら畑をたがやし、土曜日には子供たちを集めて童話を聞かせたりする。夏頃には『羅須地人協会』を設立して、以後、近隣の青年や篤農家たちに、農作に必要な化学や生物学、土壌学のほか、芸術概論などを講義したり、夜には演劇や音楽を一しょに練習する。また精力的に近くの村々町々をまわり、あちこちに無料の肥料設計事務所を開いて、稲作指導や肥料の相談に応じた」。

 宮沢賢治の生前に発表された童話や詩歌は少なく、全集に収録された作品の大半は死後発見されたノートやメモに残されていたものである。その多くは、子供たちや近隣の青年たちに聞かせたり読ませるために作った童話、戯曲、楽譜であった。

 肥料相談は無償とはいえ、半端な仕事ではなかった。詩集『花と修羅 第三集』に収められている『野の師夫』に、「豊かな稔りを願へるままに二千の施肥の設計を終へ」という一節がある。実際に、宮沢賢治は2000件を超える肥料設計書を、農民たちのために無償で作成したという。当時の技術を使って稲作を改善し、農民の窮乏を救おうとした賢治の気迫が感じられる詩が残されている。1927年8月20日に書かれたものだ。

もうはたらくな
レーキを投げろ
この半月の曇天と
今朝のはげしい雷雨のために
おれが肥料を設計し
責任のあるみんなの稲が
次から次へと倒れたのだ
(中略)
さあ一ぺん帰って
測候所へ電話をかけ
すっかりぬれる支度をし
頭を堅く縛って出て
青ざめてこはばったたくさんの顔に
一人づつぶっつかって
火のついたやうにはげまして行け
どんな手段を用ゐても
弁償すると答へてあるけ

 献身的な活動ができたのは、宮沢賢治が法華経に傾倒していたからである。長年の友人を入信させようとして賢治が送った手紙が残っており、文面を見ると「狂信」という言葉を想起させるという。また念を押すが、筆者は狂信が悪いことだとは思っていない。個人を超える大きな力の存在を心底信じた人が、科学や技術の世界で大きな足跡を残した例は数多くある。

 百姓兼技術指導者としての賢治の活動はわずか2年ほどで終わりを迎える。過労が原因で肺を傷め、昭和3年(1928年)には実家へ戻り闘病生活に入らざるをえなかった。そして昭和8年(1933年)、37歳で没する。『雨ニモマケズ 風ニモマケズ』で始まる有名な詩は、昭和6年(1931年)秋、病床にあった失意の賢治が手帳に走り書きしたものである。したがって本人が「詩」のつもりで書いたかどうかは定かではない。

イラスト◎仲森智博
 さてTech-On!読者に宮沢賢治のどの作品を紹介するべきか。Tech-On!は「技術者を応援する情報サイト」であるから、一人の技術者の成長過程を描いた『グスコーブドリの伝記』がいいと思ったものの、技術者の自己犠牲で幕を閉じるところが筆者はあまり好きではない。代表作の『銀河鉄道の夜』にしようとしたが、今度は「美しい」とか愚にもつかぬ感想しか書けそうにない。

 しばし考えた結果、『生徒諸君に寄せる』にしよう、と決めた。20数年前、別な出版社の文庫本で出ていた『宮沢賢治詩集』で読み、記憶に残っていたからである。ちくま文庫の全集で探してみると、第2巻に収められていた。解説によると、『生徒諸君に寄せる』は昭和2年(1927年)、「盛岡中学校校友会雑誌」から寄稿を依頼された賢治が準備したもの。「まず赤インクで、何箇所も空白を残しながら下書きされ、ついでブルーブラックインクや鉛筆で、手入れや詩句の追加が試みられているが、なお断片的状態にとどまっている」。結局、完成にいたらず、発表されなかった。このため、ちくま文庫の全集には、断章という形のまま収められている。かつて別な文庫本で読んだ時は、一続きの詩として載っていたと記憶するが、家捜しをしてもその文庫本を発見できなかったので、確かかどうかは分からない。

 「生徒諸君に寄せる」は教師時代の思い出から始まる。

断章一
この四ケ年が
    わたくしにどんなに楽しかったか
わたくしは毎日を
    鳥のやうに教室でうたってくらした
誓って云ふが
    わたくしはこの仕事で
    疲れをおぼえたことはない

 教師を辞めても、賢治は若者の指導に情熱を傾けていた。1927年7月10日に書かれた別な詩に次の一節がある。

しっかりやるんだよ
これからの本当の勉強はねえ
テニスをしながら商売の先生から
義理で教はることでないんだ
きみのやうにさ
吹雪やわづかの仕事のひまで
泣きながら
からだに刻んで行く勉強が
まもなくぐんぐん強い芽を噴いて
どこまでのびるかわからない
それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ

 「生徒諸君に寄せる」は、題名からお分りのように若手を激励する内容になっており、後半には次のような調子の言葉が続々と並ぶ。

断章五
サキノハカといふ黒い花といっしょに
革命がやがてやって来る
それは一つの送られた光線であり
決せられた南の風である、
諸君はこの時代に強ひられ率ゐられて
奴隷のやうに忍従することを欲するか
むしろ諸君よ 更にあらたな正しい時代をつくれ
宙宇は絶えずわれらに依って変化する
潮汐や風、
あらゆる自然の力を用ゐ尽すことから一足進んで
諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ

 今回、文庫版全集を拾い読みしていて気付いたが、「サキノハカといふ黒い花といっしょに革命がやがてやって来る」という表現は、別の詩にも使われていた。サキノハカとは何のことか分からなかったが、偉大なツールであるインターネットで調べてみると、次のサイトにぶつかった。どうやら「暴力」ないし「先の墓」という意味らしい。

 1927年5月に作られたとみられる、別な詩を紹介する。

サキノハカといふ黒い花といっしょに
革命がやがてやってくる
ブルジョアジーでもプロレタリアートでも
おほよそ卑怯な下等なやつらは
みんなひとりで日向へ出た蕈のやうに
潰れて流れるその日が来る
やってしまへやってしまへ
酒を呑みたいために尤らしい波瀾を起こすやつも
じぶんだけで面白いことをしつくして
人生が砂っ原だなんていふにせ教師も
いつでもきょろきょろひとと自分をくらべるやつらも
そいつらみんなをびしゃびしゃに叩きつけて
その中から卑怯な鬼どもを追ひ払へ
それらをみんな魚や豚につかせてしまへ
はがねを鍛へるやうに新らしい時代は新らしい人間を鍛へる
紺いろした山地の稜をも砕け
銀河をつかって発電所もつくれ

 「自然の力を用ゐ尽すことから一足進んで諸君は新たな自然を形成する」とか、「山地の稜をも砕け、銀河をつかって発電所もつくれ」といった言い回しは、技術の人ならではのものである。Tech-On!読者の書き込みにあった通り、技術の「有効利用へのロマン」が宮沢賢治には確かにある。

 先に紹介したように、教師を辞めて以降、賢治は近隣の青年に、化学、生物学、土壌学を教え、無料で稲作を指導し肥料を設計した。そうした活動のさなかに起草された『生徒諸君に寄せる』であるから、内容は近隣の青年への呼びかけにもなっている。

断章六
新らしい時代のコペルニクスよ
余りに重苦しい重力の法則から
この銀河系統を解き放て

新らしい時代のダーウヰンよ
更に東洋風静観のキャレンヂャーに載って
銀河系空間の外にも至って
更にも透明に深く正しい地史と
増訂された生物学をわれらに示せ

衝動のやうにさへ行はれる
すべての農業労働を
冷く透明な解析によって
その藍いろの影といっしょに
舞踏の範囲に高めよ

素質ある諸君はたゞちにこれらを刻み出すべきである
おほよそ統計に従はば
諸君のなかには少くとも百人の天才がなければならぬ

 賢治が一回に何人くらいの生徒や青年を相手にしていたのか分からないが、数百人もいたはずはない。上記の「少なくとも百人」とは要するに「全員」という意味であろう。

 今回読み直してみて、もっとも印象に残った一節は、上記断章六の後半、「衝動のやうにさへ行はれるすべての農業労働を冷く透明な解析によってその藍いろの影といっしょに舞踏の範囲に高めよ」である。「農業労働」とあるところに、「製品開発」「技術開発」「ソフト開発」「営業活動」などなど、ご自分の仕事を当てはめて読み直して頂きたい。筆者は「執筆活動」「出版活動」と入れ替えてみたが、おもわず下を向きたくなってしまった。

 とかく場当たりになりがちな諸活動に対して「冷たく透明な解析」が必要とする賢治の発想は、技術者のものである。といって解析しつくし管理すればいい、と主張しているわけではない。「冷たく解析」した上で諸活動を「舞踏の範囲に高め」なければならない。唐突だが「機能美」といった言葉とつながる面があるように思う。果たして自分の仕事ぶりは「舞踏の範囲」に到達しているであろうか。最後に『生徒諸君に寄せる』の最終部分を紹介する。

断章八
今日の歴史が地史の資料からのみ論ずるならば
われらの祖先乃至はわれらに至るまで
すべての信仰や徳性はたゞ誤解から生じたとさへ見え
しかも科学はいまだに暗く
われらに自殺と自棄のみをしか保証せぬ、
誰が誰よりどうだとか
誰の仕事がどうしたとか
そんなことを云ってゐるひまがあるのか
さあわれわれは一つになって(以下空白)

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