NHKの連続ドラマ「氷壁」を観ている。舞台は北アルプスの「前穂高岳」からカラコルムの「K2」に,問題の事故原因は「ザイル」から「カラビナ」へと,原作である井上靖の小説とは変わっているが,特に第2回「生死」(2006年1月21日放送)の登攀シーンは迫真の演技で,手に汗握って見入ってしまった。

 親から「お前は何しに大学に入った? 工学部じゃなくて山岳部に入ったのか?」と愚痴を言われるほど山ばかり登り,実現はしなかったもののヒマラヤ遠征も目指していた筆者の「山男」としての魂が久々に揺さぶられたようだった。岩肌のザラッとした感触,ピッケルやアイゼンの爪を雪面に打ち込んだときの軋む音,腰に下げたカラビナやハーケンが奏でる金属音,ビバーク・テントの中で聞く風雪の唸り…。

人はなぜ山に登るのか

 ストーリーの本筋とは別に,ビバーク・テントの中での主人公の2人のやり取りを観ていて,筆者が学生時代よく山仲間と議論した「人はなぜ山に登るのか?」という根源的な問いを改めて思い出した。「そこに山があるから」というのも有名な解答ではあるが,筆者らの仲間の議論では,(1)個人としての達成感を得るため,(2)初登攀競争に勝ったり難ルートに成功して山仲間や世間から「すごい」と認められること,という両極に分かれた。(1)を「自己満足型」,(2)を「名声追求型」と呼んでもいいかもしれない。ただ,誰でもそのどちらかの要素は持っており,どちらかに寄ってはいるものの中間に位置するだろう,という玉虫色的な見方を筆者はしていた。

 ドラマ「氷壁」の中で,「名声も何もいらない。より困難なルートで自分の能力を試したいだけだ」と言う玉木宏演じる「奥寺」は(1)に近い。一方,「ヒマラヤの最難関ビッグ3ルートを世界で初めて制覇してスターになる」と言う山本太郎演じる「北沢」は(2)に近い。

 筆者はといえば,大学に入りたてのころは(2)に近かった。といってもドラマにあるような世界レベルではなく,自分の山仲間同士で競い合っていた。筆者は高校時代に同級生3人と岩登りを始めた。3人で毎週のように埼玉県・飯能にある岩場に通った。3人はおのおの違う大学に進学したが,「剣(剱岳)の5級ルート登ったぞ」などとお互いの山行報告をし合い,「あいつらだけには負けてなるものか」と競い合った。

 しかし,より難しいルートを志向していくと自分の能力の限界も感じるようになるし,程度の差こそあれ危険な目にも必ず遭う。筆者はだんだん,(1)に近い考えをするようになった。難所を乗り越えるときや吹雪でルートを見失ったときなどには「死にたくない」とあがく。そのときは必死で何も考えられないが,後から思い返して「自分も生きようとする生き物なんだなあ」と実感する。逆に言うと,山にのめり込んでいた当時の筆者は下界では「生きている」という実感がなかった。

「田中さんはあれでよかったのか」

 「氷壁」やら筆者の山登りの昔話をしたのは他でもない。「氷壁」を観た後に,日経ものづくり誌がこのほど発行した多喜義彦著「価格競争なきものづくり」を読んでいて,ある文章に共通するものを感じたからである。第二章「こびるな」の中の「田中さんはあれでよかったのか」(p.150)の下りだ。

 田中さんというのは,ノーベル賞を受賞した田中耕一氏である(受賞時のTech-On!記事同田中氏の会見の記事2005年に同氏が講演したときの記事)。多喜氏が言うに,日本の研究者の中にはすごいことをしているにもかかわらず,本人はたいしてすごくないと思っていて淡々と研究に没頭している方がかなりいる。そうした方々を多喜氏は「田中さんな人々」と呼ぶ。

 多喜氏は「田中さんな人々」の一例として,東北大学でフラーレンの中に金属を入れる内包フラーレンの研究をしている畠山力三教授と平田孝道助手の2人を挙げる。畠山教授らは,従来よりも効率的に内包フラーレンを作れる「プラズマ法」を開発したが,これはあくまで「試料の作製」であり,物性研究の論文を書いた後は次の興味の対象に移っていくという。

 多喜氏は書く。「学者さんというのは(中略),一般的に自分の好きなことを地道にやっていて,それで国に貢献していこうという気概はあるけれど,自分自身が大金持ちになろうとか,超有名人になろうとか,そういう野心を持っている方は極めて少ない」。

 筆者が思うに,「田中さんな人々」とは,前述(1)の「自己満足型」に近いと思う。対極にある(2)「名声追求型」の典型は米カリフォルニア大学の中村修二氏だろうか(Tech-On!の「中村裁判特集」)。

 多喜氏は,こうした「田中さんな人々」が発見した画期的な知見を活用する方法として,2つの方法を提示している。1つは,研究者は研究に没頭して,周囲の人が評価し,企業化を考えるという役割分担をすることである。まさに多喜氏がやっているような仕事だ。実際,内包フラーレンについては多喜氏らが手伝って事業化を進めているという。ただしこの場合は,ドラマ中の奥寺と北沢の例を出すまでもなく,互いに信じられるパートナーが周囲にいないと(または見つけ出さないと)話にならない。

もっと自分を売り込もう

 もう1つは,研究者自身が自ら発見したものをもっと売り込む力を持つことである。売り込めるといういうことは自分の研究を経済,社会といった広い立場から冷静に見極められ,研究そのものの質を高めることにつながるのではないか,と指摘する。これは(1)のタイプの方に,もう少し(2)の方に寄ってみたらどうか,と言っているのだろう。

 どちらのタイプを選ぶかは,その研究者の周囲の状況や,個性によっても変わるだろう。しかしいずれにしても,研究に打ち込んで高いレベルの知見を生み出し続けようという情熱とエネルギーが,すべての原動力となる。奥寺と北沢がタイプが違うものの,8000mの氷壁を登ろうという情熱と登れるスキルを持っているように。