最近は生命科学が気になって一般書を読み漁(あさ)っている。興味があるというより、言葉の定義が分からなくて気持ちが悪いのである。私は生命科学には全くの素人だから、分からなくても当たり前である。しかし、なぜか気持ちが悪い。生命科学でよく出てくる言葉に、ゲノム、DNA、遺伝子、染色体、細胞、核酸、蛋白(たんぱく)質、アミノ酸、ヌクレチオドなどがある。これらはどう定義されているのか。例えば、ヒトゲノムと書かれていたり、ヒトDNAと書かれていたりするが、これらは同じものだろうかといったたぐいの気持ち悪さである。

 そこで、自分用の辞書を作ろうと思い立って調べ始めた。具体的な目的はなく、気持ちが悪いからだけである。それで気がついたのだが、生命科学では、言葉の正確な定義は、いまだに難しいのではないかということだった。それは、この分野が発展途上であることを意味する。言葉の中身が日々新たになるような若い分野なのだ。私の気持ち悪さは、こういう面白そうな分野なのに、自分が理解できていないもどかしさから来るのかもしれない。面白さの本質は何か。それは、「DNAの塩基配列の決定というミクロの科学にたどりついた生命科学が、これからどうなるのだろうか」ということである。ミクロの知見からマクロな生命現象を、どう解き明かすのだろうか。これこそ私にとって非常に興味深い問題なのである。

私のTO DO LISTに残った“船頭に行き先を聞くな”

 振り返ってみると、それは、シリコン(Si)半導体において原子・分子的観点からトランジスタ現象を解明できるかという問題に似ている。シナプスの集合体から脳作用が解明できるかとういう問題にも似ている。これらは一筋縄ではいかなかった。生命科学はどうやっていくのだろうか、と考えるとワクワクする。よく分からないことは気になる。よく分からないがなぜか気になっている言葉が、私のTO DO LISTに残っている。それは、“船頭に行き先を聞くな”というものである。

 これを思い出したのは最近であり、アパレル・メーカーのCEOのコメントを、ある雑誌で読んだ時である。彼は「能力を問う前に同じ船に乗れるか。それがまず大事である」と言う(その会社に就職を希望している人へのメッセージである)。「基本的な考え方が会社と合っているのか、会社についての理解がきちんとあるか、をまず問いたい。能力は無論重要だが、それは一番ではない」という非常に気になる意見だった。能力が一番でないとは面白い。そして私はハッとした。船が出てきた。船はどこかにあったと直感的に思った。それは正しかった。新入所員のころに言われて、色々考えたが十分に消化できず、ずっと引きずっていた言葉だった。

 “船頭に行き先を聞くな”という言葉はよく理解できなかったし、違和感があった。違和感というより好きではないと言った方が良いかもしれない。「船頭に行き先をなぜ聞いてはいけないのか」「船頭とは一体誰のことなのか」「行き先とは具体的に何を指すのか」という具合に疑問が疑問を呼び、考えれば考えるほどますます分からなくなる。それで、放っておきたかったが、なぜか気になって仕方がなかった。そのうち考えるのが面倒になり諦めた。会社という船に乗ってしまえば一蓮托生、なかなか途中で降りる訳にはいかない。「行き先は事前に知って乗るものだから、船に乗ってから行き先を聞くというのは順序が逆である。組織に属するとはそういうことだ」という程度の話だと理解しようとした。しかし、何か気持ちが悪かった。

「能力」と「信頼」を併記

 半導体部門の研究部長になるまでは、この言葉を思い出したことはなかった。ある時、事業部門と依頼研究テーマの打ち合わせをしている時に、先方の担当者がふと漏らした一言がひどく気になった。「下東さんにとってこの仕事はone of themでしょうが、我々にとってはすべてです」。私の研究部は半導体のプロセス・デバイス技術から設計技術までを広く手掛けていた。また、メモリからマイコンやロジックIC、そしてアナログICや個別半導体まで広範囲な製品をカバーしていた。私は部長として全体を見ているのだから、彼の仕事は多くの中の一つ(one of them)であることは事実である。そして、依頼研究テーマにはそれぞれに専任の担当が付いており、能力もある。それで良いではないか、何が問題なのか、と思った。