「言わないと思います」
 彼は得意げに笑った。
「上司の奢りを食べ残す人は自分に甘いタイプ、部下に全部平らげろと強要する人は押しつけがましいタイプです。これ、けっこう当たるんですよ」
「僕は自分に甘いのか……」
 僕たちのやりとりを聞いていたTさんがぽつりと言った。
「たしかに部下に残さず食べろと強要するような上司はどうかと思いますね」
 Tさんは他愛ない話の内容にしてはひどく生真面目な顔をしていた。それが印象的で、しばらくの間、僕の記憶に残った。

 後日、僕はその知人からTさんが部署を異動したと聞いた。上司に疎んじられたのが原因らしいと知人は言った。
「上とぶつかるような人には見えないんだけど……」
「これはまた聞きなんだけどね」
 そう前置きして知人はこんな話をしてくれた。
 Tさんは職場で進めているあるプロジェクトのリーダーを務めていた。あるとき、Tさんの上司である部長が若手社員を名指しし、プロジェクトから外せと命じたという。その若手社員は部署の運営について部長に意見したことがあり、それを根に持っているのが見え見えだった。
 Tさんは冷静な、しかし明確な意志がこもった口調でこう言った。
「それはできません」
「なんだと?」
 部長はTさんをねめつけたが、Tさんは続けた。
「私が見る限り、彼はきちんとやっています。プロジェクトにとって大事な存在です。正当な理由があれば別ですが、彼を外すわけにはいきません」
 それから数カ月後の今回の人事でTさんは部署を変わった。プロジェクトはTさんの発案だったから望んだ異動ではない。
「意に沿わない人事は上司のしわざでしょうね。こういうことはよくありますから」
 知人はそう言ってため息をついた。

 果たしてTさんの異動が部長のしわざだったのかどうかは真相はわからない。「人事とは『ひとごと』と読む」としばしば言われるとおり、もともと自分の思い通りにならないものである。
 しかし、知人の推察も十分あり得ると僕には思えた。部署の運営について意見した若手を逆恨みし、プロジェクトから外そうと画策した部長なのだ。個人的な感情からTさんを異動させたとしてもおかしくはない。
 そんな傲慢で狭量な上司に対して、Tさんは正論を通したのだった。それは考えるまでもなく大変な勇気を要する行為である。Tさんは優しげで穏やかな人だが、相手が誰であろうと理不尽な命令には従わない強さを持っていたのだ。まるでたおやかな枝の中心に一本筋が通っているように。
 数年後、僕は食事会でTさんに再会した。彼は事業部長として会社の新規事業を成功に導くほどの活躍ぶりだったが、相変わらず謙虚だった。部下だったら精一杯彼のために働いてみたい、そんな気持ちにさせてくれる人だった。

 僕はいまでもよく彼らのことを思い出す。そして彼らのようにありたいと思う。謙虚だが従順ではなく、もちろん卑屈でもなく。