資料室の前を通ると先輩に怒鳴られた嫌な記憶がよみがえる日々は何週間も続いた。でも僕は必要な時は無理にでも資料室に入って調べ物をした。いまのようにインターネットが普及していなかったので、資料室を使わなければ仕事にならなかったし、何よりも恥ずかしさに負けたくない気持ちもあったのだ。
 そんなある日、僕を叱りつけた先輩が人事異動で編集部を去ることになった。送別会の席で、僕は久しぶりに先輩から声をかけてもらった。
「そう言えば、特集を一緒にやった時、お前を怒鳴ったっけな」
「はい……」
「ちょっと厳しいかなとも思ったけれど、お前にはぜひ言っておかなければと思ったんだ」
 先輩はそう言って僕のグラスにビールを注いでくれた。
「お前は、よくやっていると見られたい気持ちが人並み以上に強いよな。もちろん、それは決して悪いことじゃない。でも、俺たちにとって大事なのは結果なんだ。俺はよくやっているぞと周りにアピールすることじゃない」
 たしかにそうだった。グラフや図表を作成する仕事があったのに夜遅くまで先輩記者たちの打ち合わせに同席したのは、やる気がある奴だと見てもらいたかったからだ。
 しかし、僕に問われていたのはきちんとしたグラフや図表をつくることだった。徹夜したからミスしてしまっただなんてまったく理由にならない。読者は(お客は)こちらがどんな状態で仕事したかに関係なく常にベストなものを要求してくるし、またその権利があるのだ。

「それからもう一つ、どんな仕事でも一段落したら必ず冷めた他人の目で自分の仕事を振り返るようにしろ。とりわけお前はケアレスミスが多いからな」
「はい……」
 僕は頭を垂れた。何もかもが先輩の言うとおりだった。
「まあ、しかし、仕事から逃げなかったのはよかったぞ。それだけは評価してやる」
 先輩はそう言って、グラスのビールを飲み干した。
 送別会が終わり、僕はほんの少しだけ救われた気持ちで家路についた。先輩はやはり尊敬できる先輩だった。それに僕のことを見限ってしまったわけではなかった。そんな思いが僕の心を軽くしてくれた。胸にはまだかすかに痛みが残っていたが、先輩に厳しく言ってもらってよかったかもしれないと思った。
「結局さ、仕事って傷ついた者勝ちだからさ」
 改札をくぐり、プラットホームへの階段を上りかけたとき、ふいにそんな声が聞こえた。
 僕は後ろを振り返った。構内にはたくさんの勤め帰りの人たちがいる。だれかが話のなりゆきで言ったのだろうか。それとも空耳だったのだろうか。
「仕事は傷ついた者勝ちか……」
 僕は小声でつぶやいてみた。

 あれから二十数年がたった。先輩は定年で退職し、会社も何度か移転したのであの資料室もいまはない。しかし、仕事は傷ついた者勝ちという言葉は、いまだに新人時代と変わらない重みを持っている。
 僕はいまでも時には壁に突き当たったり、辛い目に遭ったりすることがある。ふざけんなよな、と心の中で悪態をつきたくなることもある。
 そんな時、僕はこの言葉を心の中で何度も何度も唱えて自分に言い聞かせるのだ。
 仕事は傷ついた者勝ち。心の傷は明日の糧になるはずだと。