あまり大きな声では言えないのだけれど、実は僕はペンネームで小説家業を細々と営んでいる。これまでに渋沢和樹というペンネームで長編ミステリーを四作、井伏洋介というペンネームで『月曜の朝、ぼくたちは』という青春群像劇を上梓した(『月曜の朝、ぼくたちは』は幻冬舎文庫に入っているので、もし機会があればぜひ手にとってみてください)。
 もちろん平日は会社の仕事があるので、執筆はもっぱら休日である。休みの日もキーボードをパタパタ叩かなければならない日々はせわしいと言えばせわしいが、好きな仕事だし、意外なことに会社の仕事との相乗効果もあって、作家になれてやはりよかったと思う。
 とりたてて優秀でもなく、才能に恵まれているわけでもない僕がささやかながらひとつの目標を叶えることができたのは、ある先輩記者のアドバイスのおかげだった。

 それは入社して3年目のことだ。夜遅くまで残業をした僕は、同方面に帰宅する先輩記者と一緒に終電に乗った。
 その先輩──Sさんはやせていて、タバコが好きで、いつも地味な服装をしているところは、なんだか一昔前の学校の先生みたいな感じだった。仕事ぶりも外見に違わず地道で、だれよりも朝早く出社してこつこつと取材し、夜遅くまで職場に居残り推敲に推敲を重ねて文章を書いた。
 僕はこれさいわいにと原稿の書き方や取材の仕方についてあれこれ質問した。
 Sさんはていねいに答えてくれた。こういうところが先生っぽいんだよな、などと思っていると、Sさんがふいに聞いた。
「君はまだ二十代だっけ」
「はい」
「若いな。うらやましいな」
「そんなことないですよ。毎日失敗ばかりで。早くSさんみたいになりたいです」
「一生懸命やっていればスキルなんて年とともに身についていくさ。それよりも問題なのは人は年を取るにつれていろんな可能性が失われていくということだ」
「そういうものですか」
「そういうものだよ。だから可能性の芽をつぶさないために、いつも手帳に3割の余白を残しておけよ」
「手帳…ですか?」
 話の展開がよく見えなくて、僕はぽかんと口を開けた。
「手帳というのはたとえだよ。どんなに忙しくても心とスケジュールに余裕を持たなければダメだと言っているんだ。余裕がないと、せっかく訪れてくれた幸運の女神を見逃してしまう」
「Sさんが幸運の女神なんて言い方をするとは思いませんでした」
 Sさんは細面に微苦笑を浮かべた。
「仕事をしていると、自分を大きく飛躍させてくれたり、新しい場所へといざなってくれるようなチャンスがいつかは訪れるんだよ。でも心とスケジュールに余裕がないと、それを見落としてしまったり、チャンスをつかもうと動くことができずに放ったらかしにしてしまう。僕は残念ながら、放ったらかしにしてしまった口だった。あとから『あれはチャンスだったんだ』と思っても遅いんだ」
 Sさんは笑みはどこか寂しげだった。