私はミーハーである。憧れの米国留学(1970年代はそうであった)が決まった時に、私が何より嬉しかったのは半導体業界の有名人に会えることだった。半導体は若かった。トランジスタは1947年にベル研究所で発明されたのだから、1970年代はまだ20歳代の若き産業であり、半導体創生期の著名人はまだ働き盛りであって多くは米国在住であった。半導体の教科書に出てくる有名人に会えるかと思うと胸がわくわくした。

 留学先をカリフォルニア工科大学とスタンフォード大学に絞って検討し、最終的にはスタンフォード大学に決めた。そこには、トランジスタの発明者でノーベル賞受賞者のショックレー(W.B. Shockley)教授やトランジスタの電荷制御モデルの提案者のリンビル(J.G. Linvill)教授、イオン打ち込み技術開発の中心となって活躍中のギボンズ(J.F. Gibbons)教授など挙げればきりがないほどの有名人がいた。それにスタンフォード大はシリコンバレーの中心であった。私の米国留学は“半導体有名人詣で”である。

時間欲しさに教授の研究テーマに難癖

「先生、その仕事私はあまり気が乗りません。目下の興味は2次元デバイス解析シミュレーションとその応用に関するものです」。
「オーケー、じゃあ君の提案を待っている」。

 「こいつをどう扱えばいいものか?」と教授の目は微妙に泳いでいた。私はスタンフォード大の奨学研究生(Research Scholar)で、目の前の担当教官は半導体モデリングの若きエース、ダットン(R.W.Dutton)准教授であった。ここは電気エンジニアリング(Electrical Engineering)ビルの2階角部屋、ダットン准教授の執務室である。

 我々は約1カ月もの間、私のテーマについて検討していた。私は先生の推薦テーマ1件を既に断っており、今回も気乗りがせず理由を付けて断った。その結果、どうも自分でテーマを見つけるしかなくなったようだ。実を言うとそれが私の希望であったのだ。

 この留学の機会に、有名人を訪ね歩いてどんな人が半導体分野を創造したかを知りたかった。時間制約のないフリーハンドが欲しかったのである。先生の推薦テーマで時間を制約されるのは回避できた。しかし、自分でテーマを見つけ自分で成果を出さねばならないという厳しい状況になってしまった。成算があった訳ではなかったが、この選択に悔いはなかった。

「わざわざ日本から何をしに来たのかね?」

 ここは大学のすぐ近くのペイジミルロード、丘の中腹にあるフェアチャイルド社半導体研究所の一室、ジェームズ・アーリー(J. Early)研究部長の部屋である。公園のような外の庭には赤黄茶色の落ち葉が絨毯のように地面を覆っていた。秋も深まる10月であった。

 アーリー博士はトランジスタの特性にその名前が付いている人である。バイポーラ・トランジスタの「アーリー効果」がそれであり、教科書に出てくる有名な現象を見つけたその人である。大学の教授ではないのは予想外であり、米国は人材の裾野が広いと思った。優しそうな雰囲気で好感を持てる人だった。日本から来た一介の若者とも二つ返事で会ってくれるような人である。

 もちろん、懇談申し込みに当たってはスタンフォード大の研究生という身分を大いに活用させてもらった。私は半導体の基礎研究、特に微細MOS(metal oxide semiconductor)トランジスタの新しい物理現象について2次元デバイス・シミュレーションを使って研究していることを話した。私は面白い現象をもう発見していた。微細MOSトランジスタが真空管のように振る舞う領域があることだ。それは普通の動作領域ではなくパンチスルー領域であり、まだあまり研究されていないところだった。