あと一歩かなと思っていた矢先に、この技術を実際に使えるかも知れないチャンスが来た。トランジスタと蓄積容量を積層するスタック構造を実現しようとすると、Si基板(単結晶Si)以外の表面に高品質の極薄絶縁膜を形成する必要がある。しかし,単結晶Si以外で高品質の極薄絶縁膜を形成することは、当時の技術では至難の業だった。多結晶Si上に高品質の極薄絶縁膜を形成する技術も、誰も実用化していなかった。

耐圧不良で窮地に

 日立のDRAMの運命がかかった一大プロジェクトに、このような見通しが確実ではない新技術は採用しないのが普通である。しかし、私は2年間この研究をつぶさに見て、形成した膜の性格を知り尽くしていた。この気難しい膜を使いこなせる人は私しかいないだろう。私は4MビットDRAMの開発に戻るにあたり、この膜が必要なSTCの実用化を提案した。何ともリスクの大きい提案と思われたが、この提案が通ったのである。もちろん、それまで2年間以上の研究成果が評価されたこともあるが、そこまで我々が追い込まれていたことも事実だっただろう。

 こうしてSTC技術の開発がスタートしたが、当初はチーム全員の賛同を得ていた訳ではなかった。開発センターの一部は懐疑的であり、STC技術を実用化できる確証が得られるまでは、従来のプレーナ構造の改良型も検討すべきだとして並行して開発を続けていた。そこにSTCの耐圧不良が起きた。“それ見たことか”“研究所の中だけ実現できる代物で、実用化なんかできないのではないか”“こんな提案に乗ったのが間違いだった”。表立ってはそれほどあからさまな声は上がらなかったが、私には大勢の怨嗟の声が聞こえてくるようだった。

 4MビットDRAMの開発状況や事業化に向けた検討をする多くの会議で、私は窮地に立たされた。しかし、私はこの技術を信じていた。2年以上も付き合っているのだ。私が信じなくて、誰が信じるのか。この信念がなければ、この状況には耐えられなかっただろう。必ず原因を見付けてやると、執念で原因究明を続けたが、進退はきわまりつつあった。よりによって、なんでこんな時に不良なんか起きるのかと恨めしく思うことも、たびたびだった。

犯人はクリーン・ルームの外に

 私は、やはり研究所から来ていた相棒のプロセス担当の主任研究員と一緒にクリーン・ルームに入り、それこそ不眠不休の体で耐圧不良の原因を探し回った。原因を探し始めてはや3日が過ぎ、探せるところは探し尽くしたころのことである。疲れてクリーン・ルームの床に寝転んだ。彼も隣で横になりながら、何気ないひと言を発した。「クリーン・ルームの外ってことはないよなあ。ボンベくらいしか置いてないもんなあ」。この言葉に私は反応した。「ボンベ?窒素ボンベか?!行こう、外だ!!」。

 結局、原因はこの窒素ボンベにあった。従来技術では、このボンベから供給される窒素ガスはパージ用、すなわち製造プロセスに使われるプロセス・ガス同士を入れ替える際などに使われるだけであり、製造プロセスそのものには使われていなかった。そのため、窒素ガスの純度などは厳密に管理する必要がなかった。しかし、今回の新技術では窒素ガスを製造プロセスそのもので使う。すなわち多結晶Siを窒化して高品質の絶縁膜を形成していたのである。従って窒素ガスの純度はきちんと管理する必要があった。

 耐圧不良が起きた際には、さらに悪いことに、不純物が沈積しやすいボンベの底の部分にあった窒素ガスが使われていた。この結果、絶縁膜の品質が劣化し、耐圧不良が起きていたのである。窒素ボンベの変更と窒素ガスの新しい管理基準を設けることで問題は解決した。STCは生き残ったのである。

 その後、日立はSTCを使った4MビットDRAMの開発に成功、他社に対して約1年リードすることができた。こうして1MビットDRAMの雪辱を果たすとともに、半導体事業の業績を大いに向上させたのである。こういう大きな成功の裏には成否を分ける際どい時期(いや瞬間といって良いかも知れない)が、何度か訪れる。そういう危機を突破するのは組織力ではない。個人の力である。技術力は当然として、この個人の力とは信念と執念にほかならない。