「はし」という音、それにまつわる様々な興味深い話がある。まず、子供のころよく聞かされて面白く感心した一休さんのとんち話。子供曰く、「一休さん、一休さん。『このはしわたってはいけません』と言ったのになぜ渡ってきたのですか?」。一休さん答えて曰く、「いえいえ、はし(端)は渡りません。真ん中を通って来ましたよ」と。ここで子供達は「ははは」と笑い、「はは、あーなるほど」と感心する。

 「はし」はアクセントの置き方で、橋、端、箸になり、とても紛らわしい。また、橋を指す場合でも、ある人は田舎の木の橋を、ある人は陸橋を、またある人はサンフランシスコのゴールデンゲート橋を思い浮かべながら、「はし」と言う。これは、抽象と具象に関し、人間のコミュニケーションの有り様を教える教材として出てくるよくある例え話で、研修のたびに何度も聞かされたものだ。橋に対する各人のイメージの違いはさておき、橋を指す「はし」は岸と岸とを結ぶものである。これは共通の認識だろう。やや観念的になるけれども、橋は一つの世界が他の世界へと変わっていくその変化を導くところであると言えるのではないだろうか。今回は、私のその橋の物語である。

“常識の世界”と“独創の世界”を行き来する

 日立製作所 中央研究所には「変人橋」という名の橋があった。今は「返仁橋」と言う。研究所の正門を入って50mくらい行くと、その橋はある。下は5mくらいのまあまあ深い谷で、流れている川は野川の源流である。あまり水量はない。私は23年と9カ月の間、この橋を渡った(もちろん休日は除いてだが)。この橋は変人橋という名がふさわしいと、私は思っている。返仁橋と言われると何かよそよそしく思えるのである。変人橋にはあって返仁橋にはないのが、私の橋の物語であるからだ。

 私は修士出たてのフレッシュな若いエンジニアとして、ここ中央研究所に赴任した。私を待っていたのは「独創」と言う大きなスローガンだった。そう、独創性こそ研究所で求められている第一の特性だった。その言葉はあたかも遠い異次元の世界から私を誘うように思え、身震いがしたのを覚えている。言葉に魅了されたといって良い。「どうすれば独創的になれるのか?」。そればかりを考えるようになった。独創的な結果が出せるかどうかは別として、独創的な発想をしなければならない。この思いに取り付かれたのである。

 それは、常識にとらわれず、また人とは違った発想をすることだろう。しかし、仕事の時にだけ都合良く独創的になれるのだろうか。いやいや、そううまい具合にはいかないだろう。生活全般を律せねばならないだろう。私は常識的な社会人でもあらねばならないのだから。一般の生活で人と違ったことをしては、はた迷惑というものだ。「どうしたら両立できるのだろうか。ここまでが常識人でここからが独創人である、と切り分けられる境が必要なのではないか?」などと、後で考えれば変であることも含め、色々と独創について考え続ける破目になった。そして私の行き着いた先が変人橋だった。

 変人橋は私の救いの神である。変人という言葉の由来は、そのままで変わった人のこと。昔といっても40年くらい前までは、博士号を持つ人は世間一般では珍しく一風変わった人と見られていたに違いない。そう言う人を変人と呼ぶのは当たっていたのではなかろうか。しかし、私の“変人”は「人が変わる」と読む。これが私の独創なのだ。正門から橋の手前までが常識的な世界、橋の向こうは人と変わっている発想が必要な独創世界。変人橋はこの2つの世界を結んでいると考えた。そして変人橋は私を独創人に変えてくれる橋になったのだ。

 それからは、こちらから橋を渡る時は、「今から変人になる」とブツブツ言いながら彼岸に渡る。帰りは、「今から常識人になる」と考えながら変人橋を渡ったものである。橋の上の私はきっと奇妙に見えたに違いない。皆さんもきっと奇妙な余田話しと思われるかもしれない。しかし、これは大真面目な話なのだ。

 今にして思えば、入社したての右も左も分からない新入社員が、「独創とは何か。どうすれば独創的になれるのか」をまともに考えたのは無謀といえるかもしれない。しかし、良きにつけ悪しきにつけ、この体験が独創という意識を強烈に私に植え付けたことは事実である。私のその後の研究生活の基本原則として、何をどのようにやろうとも、「独創的か否か」がすべての判断の基本となった。独創に毒されたのである。

エンジニアの素質として重要なこと

 さて、ここまで私を魅了した独創性とは一体何であろうか。独創性はoriginalityと言う。それは個人の創造力(creativity)を最も重要な価値基準と見る考えである。この思想はルネサンスにおける個人主義とともに始まり、その後世の中に広く顕揚されるようになったと考えられている。独創という言葉の類語を辞書で見てみると、創造、創出、創作、新機軸、工夫などが出てくる。天地創造というがごとく、遠い昔、創造は神の領域だったのである。それが、ルネサンス時代を境に芸術家や天才などの人間による造形、創作が生まれた。さらには、技術や技能にかかわる創造へと発展してきた。創造が神の所業から人間の所業へと開放されたのである。