前回に続き,エンジニアとして楽しかったことや苦労したことについて,日本を代表する企業であるソニーのテレビ事業を牽引してきた中村末廣氏(現・崇城大学 副学長,元・ソニー執行役員副社長)に聞いた。特に苦労話については,新人時代や若いころの体験を語ってもらった。


――製造業に身を置いて良かったと感じるのは,どんなところでしょうか。

中村 末廣(なかむら・すえひろ)氏
1959年,ソニー入社。テレビ事業本部長,ディスプレイ,セミコンダクタ,コアテクノロジー&ネットワークの3カンパニーのプレジデントを歴任。平面ブラウン管テレビ「ベガ」の開発をリードし,ブランド確立に導く。2002年に同社執行役員副社長を退任。ソニー中村研究所 代表取締役社長を経て,現在は崇城大学 副学長を務める。
(写真:栗原 克己)
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 製造業という言葉は人によってとらえ方が違いますが,ここでは,商品・技術を開発し,市場で広く買ってもらうまでの全体を指すこととします。英語で言えばマニュファクチャリング・インダストリーです。言われたものを,言われたとおりに作って供給する“下請け仕事”は,ここでは除きます。

 さて,製造業の何が良いかというと,自ら手をかけて商品を世に送り出し,お客さまに喜んでいただけることです。開発,製造,販売の一連の流れを通して,お客さまに感動してもらえる商品を送り出すことができます。様々な材料を使って,世の中のためになる,ものすごく便利な商品を生み出し,喜んでもらう。これが一番だと思います。製造業は虚業ではありません。抽象的ではなく,具体的なところが,私も非常に魅力に感じました。エンジニアとして働く醍醐味も,同じような点にあると思います。

 このエンジニアの醍醐味について,ソニーの創業者の一人である井深大氏は「創造」という言葉を使っていました。色々な技術の最先端を見て,社会事象を見て,そして自分の会社を見て,「あの技術とこの技術をつなげて,あのスキームを持ってくれば,こんな素晴らしい世界を創り出せる」と,井深氏は常に考えていました。一つの技術に携わるだけでなく,開発,製造,販売の全体の中でビジネス・チャンスを捉えて,産業をリードしていく。そういう立場に向かって人生を送ることができたら,とても良いと思います。もちろん,スペシャリストの道をずっと突き進むのも良いことです。ただ,その場合はエンジニアよりもむしろ,サイエンティストや大学の研究者になった方が良いと思います。

――エンジニアとして苦労したこと,特に若いときに苦労したことは?

 ラジオの設計を任された時のことです。試作して,製品のバラつきなどのデータを取って,納得するまで試作を繰り返して,最終的な製品仕様を決めて,量産に入るわけです。そうするとだいたい,自分としてはバラつきを十分に抑えられる設計をしているつもりなんだけれど,意外と暴れてしまうんです。不良が出る。不十分なところが表に出てしまう。でも,量産に入る。胃が痛くなる。眠れない(笑)。

――どうやって乗り越えたのですか。

 それはもう仕方がない。不良が出たら,徹夜でバラつきを抑え込む作業をするわけです。部品メーカーのところにサンプルを持って行って,バラつきが抑えられるような部品を,必死に頼んで作ってもらったこともありました。その一方で,いったん量産に入ると,待ったなしで不良品が工場からドンドン出てくるわけです。それで,現場の親父さんに「お前が持ってきたのは全然ダメだ」と言われてしまう。ただ,初期の段階には現場に苦労をかけて申し訳ないのですが,必死に努力して直していけば歩留まりは必ず上がります。

――徹夜続きの苦労を乗り越えられた原動力は何ですか。

 やりたいことだったから,苦労も楽しかったんです。そして,よく遊びました。そのころは仲間とよく麻雀もしていました。夜に,暇を作って麻雀をやる。当時は東京の大森に下宿していたのですが,電車がなくなると,五反田から大森まで歩いて帰ったものです。徹夜して家に帰り,次の日に「あーいけねえ」と思って会社に来たら,守衛所の人に「日曜出勤ご苦労さん」と言われたこともありました。「えっ,今日は日曜だったのか」と(笑)。