日本育ちのひろりんママですが、「米国に留学していたのに、なぜ帰国して日本企業に就職したの?」と時々聞かれます。まあ、見た目上背があり、派手っぽいので、いかにも外資系企業で働いていそうに見えるんでしょう。でも、実際のところ、海外の会社で働くということは一度も考えたことはないんです。海外の会社や企業文化に偏見があるわけではありません。外国人の友人も世界中にいますし、海外の企業にはそれなりの良さがあるということもよく分かっています。それでも、海外企業で働くという選択肢がないのは、コミュニケーション・ウェイが自分に向いていないからだと思っています。

小さい頃に染み付いた躾は変えるのが難しい

 小さい頃、古い家で育ったので、「女性は三歩下がって男性を立てるものだ」、「男性をうまく操縦しながら、自分の思うことを実現させていくものだ」という躾(しつけ)を受けました。2つ上の兄がいるのですが、お年玉から始まって、お風呂も食事もすべて兄のあと。部屋も日当たりが良く広い兄の部屋に比べて、私の部屋は日当たりの悪い小さい四畳半といった具合でした。その当時は、「男尊女卑なんてナンセンス!」と強く反発し、幾度となく家族と衝突したものです。しかし、今は、「小さいころの躾や教えは自分の中に染み付いている部分があって、どうにも変えられないものがある」と思うようになりました。

 それというのも、米国留学中、ディベートの時間に「あなたはなぜ対立を恐れるのか。意見が違っているからといってあなたの人格を否定しているわけではない」と指摘されたからです。それはその通りで、頭の中の理屈ではそれがよく分かっているのです。それでもなお、他人(特に男性)と対立することがあまり居心地よくないと思うのは、小さいころの躾がどこかに染み付いているのだからだと思います。人と対立するということに、理屈ではない居心地の悪さ、罪の意識のようなものを感じて、必要以上に譲ってしまう。後から何度後悔したか、分かりません。

日本と米国のコミュニケーション・スタイルの違い

 ひろりんママよりは、はるかに年下、男女平等が当然の世界に育っている皆さんは、もっと自然に議論や対立を受け止められるのかもしれないと思います。のびのびと議論している若い世代を見ていると、うらやましいなとも思います。それでも、話をよく聞いてみると、日本女性として育てられた文化のどこかに「相手を立てる奥ゆかしさ」や「一歩ひいた辛抱強さ」が埋め込まれていて、肝心の時、とっさに自分の意見がうまく言えなかったり、自分の気持ちをうまく伝えられなかったりして、もどかしい思いをしている人も少なくないように思います。

 海外企業、特に米国企業で働く女性たちは、自分を主張し、自分の言わんとすることを相手に伝えるためのプレゼンテーションが上手です。自分がどうしたいか、自分がどう感じるのか、いつも言葉は「I want」とか「I think」で始まります。自分の要求もはっきり伝えますが、その責任も自分と、はっきりしています。たとえて言うならば、一人ひとりの粒がはっきりしていて、それが集まって集団を形成しているのが海外企業。日本企業は一人ひとりの粒がもっと柔らかく、集団に溶けているようなイメージです。

海外企業で働くことが向いているかどうか

 海外企業で働くことが向いているかどうかは、「I」を主語にした自己主張がすんなり口にできるかどうかが一つの目安であるような気がしています。「私は~したい」「私は~考える」。簡単なようですが、「人のことを立てることが奥ゆかしい」という文化の中で育つと、とっさの時に「I」が出てきません。

 異なる文化が交じり合い、その中でどうやって理解し、歩み寄るか。そのプロセスに不可欠な「I」を中心にしたディベート文化と、ある程度の同質性の中でお互いの面子をつぶさずに、実現可能な結論を導き出そうとする日本文化と。どちらがいいとは言えません。ただ、どちらが自分に向いているのか、どちらが自分にとって生きやすいのか、考えてみるのも、会社選びの一つの選択基準になるのかもしれません。