実は、秋田と戦後日本のロケット技術史とのつながりは深い。日本のロケット開発の父と呼ばれる糸川英夫・東大教授が、戦後初めて打ち上げた国産ロケット「ペンシルロケット」。東京や千葉での水平発射実験を経て、初めて上空に向けて発射した場所は、現在の秋田県由利本荘市にある道川海岸だった。

 その後、能代に東大のロケット実験場が開設される。能代宇宙イベントの会場となる鉱さい堆積場からほど近い場所で、現在はJAXA(宇宙航空研究開発機構)がロケットエンジンの燃焼試験などを実施する多目的実験場として利用している。

モノが作れない学生たち

 糸川教授らがペンシルロケットを打ち上げたのは1955年8月。その50周年を控えた時期に、秋田大学の土岐仁教授の研究室を一人の男が訪れた。

 「50周年を記念して、何かイベントを開催したい」

ものづくり教育に情熱
秋田大教授で、同大ものづくり創造工学センター長の土岐仁氏。能代宇宙イベントの事務局会長や、缶サット甲子園を主催する「理数が楽しくなる教育」実行委員会の理事長を務める
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 現在、和歌山大学の特任教授を務める秋山演亮氏。民間企業の研究者として、多くの宇宙関連プロジェクトに携わった経験のある人物だ。土岐教授への相談をキッカケに、同教授を会長、秋山氏を事務局長とする能代宇宙イベントの事務局が立ち上がった。

 土岐教授が学生を対象にした宇宙イベントの企画に賛同した背景には、若者の理科離れがある。工学系学部の教育現場にいる教授として、他の大学と同じように志願者減少、大学生の学力低下などに頭を痛めていたのだ。

 悩みの本質は、大学に入ってくる若者の数学や理科の基礎知識の低下だけでなく、別のところにもあった。あまりにも、モノを作れない学生が増えていることだ。

 土岐教授は、毎年の講義で学生にロケットを製作させる。本格的なものではない。紙で作る高さ30センチほどの超小型ロケットである。円筒状に丸めた紙の先に、円錐状の紙を取り付ける。それを火薬を使って、上空に打ち上げる。

 うまくいけば、ロケットは数十メートルの高さに打ち上がる。頂点に達したら、先端の円錐部分が分離。内部に仕込んだビニール製のパラシュートが開き、地上に降りてくる仕組みだ。