世の中はもともと不公平にできています。美人に生まれたり、不美人に生まれたり。お金持ちに生まれたり、貧乏に生まれたり。自分では選べない条件の中で、人間は生きていかざるを得ないというのが、世の中の真実のところだと思うのです。それでも、平凡な人間は「もっと美人になりたい」「もっとお金持ちになりたい」「もっといい生活がしたい」とあくなき欲求を追い求めて生きていかざるを得ないような気がします。きっとこういう欲望が、仏教でいうところの“業”なのでしょうね。

頑張りはコンプレックスの裏返し

 それほど美人というわけでもなく、それほど明晰な頭脳をもっているわけでもない、ひろりんママの場合、若いころはコンプレックスとの戦いでした。

 人に負けたくない、男性に負けたくないと人一倍、意地を張っていたのは、コンプレックスの裏返しだったのかもしれない、と今になって思います。Aさんよりワタシは魅力がないから、他でカバーしないと。Bさんよりワタシは頭がよくないから、他でカバーしないと、と必死になって、いつもいつも周囲の人からの自分の評価にナーバスになっていました。

 表面では、まったくそんなことは気にしない風を装いながら、内面では周囲の人からどう見られているかにいつもビクビクして、誰にでも好かれようと必死に努力して、その陰で実は疲れ果てていたような気がします。

ネギはネギらしく

 そんな時、「ネギはネギらしく、バラはバラらしく」という言葉に出会いました。岸田劉生さんという画家が書かれた詩を基にした言葉のようです。麗子像で有名な洋画家と言えば、ピンとくる人もいるのではないでしょうか。

エンドウにも
バラにもなろうとせず
ひたすら、自分として育っていく故に
ネギは天才だ

 この言葉、どこで出会ったのかは定かではありません。ただ、年齢を重ねて人の親になってみて、初めてこの詩の持つ重みというものに気づいたような気がします。他人の評価に振り回されず、自分は自分らしく生きていくことの大切さというものをこの詩は教えてくれるような気がします。

人の評価に振り回されずに生きる

 テストの試験で成績の順位がついた学生時代と違って、社会人になると、もっと基準があいまいなところで自分が評価されるようになります。もちろん、会社側はなるべく客観的な基準を設けようとしているのですが、学生時代のようにテストの点数で一律、問答無用というわけにはいきません。自分のパフォーマンスに対する自己評価と、他人からの評価が食い違うというのはままあることなのです。

 そんなとき、他人からの評価に振り回されることなく、自分で自分をどう育てていくかがとても大切になります。そのためには、自分がエンドウなのか、バラなのか、ネギなのかを見極めて、自分らしく、他人に振り回されずに生きる、自分で自分の価値を認めて、自分自身を慈しみながら生きる、ということが必要になってくると思うのです。

 他人の評価に振り回されて疲れてしまったら「ネギはネギらしく、バラはバラらしく」という言葉を思い出してみてください。ネギにはネギの、バラにはバラの美しさがあるということも。